倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)
これだけでは何のことか分からないだろう。以下、ポール・バーハウ他(Paul Verhaeghe&Jochem Willemsen、2010)の実にすぐれた注釈を私訳引用する。
子供の標準的発達とは次の通り。
幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。
中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このような方法で、母を喪うことについての不安は飼い馴らされうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子供のいっそうの発達が起こる状況を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。
倒錯の心因においてはこれは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化 mirroring のため、子供は母自身の一部として、母のコントロール下にいるままである。したがって子供は自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。
これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母はファルス化された対象a を通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。…
このようにして、子供は自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルス(ファルス化された対象a)となり、それは子供にとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子供はその獲得物を保護しようと試みて特有の反転を演じる。倒錯者は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。
臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。(⋯⋯)
倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の大他者である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。
これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が通常、失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押しつけに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 2010)
①:《第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる》とあるが、日本においてはこれはしばしば起こっているだろう。したがって日本は、標準的な神経症者の国ではなく、倒錯者の国でありうる。
②:倒錯者の不安は《大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している》とあるが、ポール・バーハウの同僚である Stijn Vanheule によれば、そのさらに底には《内部から主体を圧倒する破壊的な》身体の欲動がある。
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
③:『母なる超自我」という用語が出現しているが、ラカン自身の発言を掲げる。
母なる超自我とは、「母の法」としての原超自我のことである。--《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan. S5)
ジャック=アラン・ミレールの簡潔な注釈なら次の通り。
倒錯者の構造とは、分析家の言説と「構造的には」等価である。すなわち a → $
ただし分析家の言説の対象aは、無、空虚である。他方、倒錯者の言説の対象aは見せかけ・囮としての対象aである。
ラカンはこの無、空虚を穴 trou 等とも表現している(参照:モノと対象a)。
⋯⋯⋯⋯
以下、参考のために標準的男性における父との同一化をめぐるフロイトの考え方を引用しておこう。
対象備給という語が出てきたが、《「 備給 Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい》((フロイト『抑圧』1915)
※フロイト英訳標準版のR.ストラッティ訳では「カセクシス cathexis」と訳される besetzung は、邦訳では「備給」、「充当」などである。だがフロイトは英訳のカセクシスを嫌った、besetzungはもっと日常的語彙だと。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
ジャック=アラン・ミレールの簡潔な注釈なら次の通り。
母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO, Leonardo S. Rodriguez、1996)
④:ところで、上のバーハウ他の文にこうもあった。
ジジェクはこれをラカンの四つの言説のひとつ、分析の言説図を示しながら実に巧みに説明している。
倒錯者は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。
臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。(ポール・バーハウ他、2010)
ジジェクはこれをラカンの四つの言説のひとつ、分析の言説図を示しながら実に巧みに説明している。
動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながりの生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)
倒錯者の構造とは、分析家の言説と「構造的には」等価である。すなわち a → $
私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11)
ただし分析家の言説の対象aは、無、空虚である。他方、倒錯者の言説の対象aは見せかけ・囮としての対象aである。
セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢、母の去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュのような見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)
ラカンはこの無、空虚を穴 trou 等とも表現している(参照:モノと対象a)。
⋯⋯⋯⋯
以下、参考のために標準的男性における父との同一化をめぐるフロイトの考え方を引用しておこう。
単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。
エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)
対象備給という語が出てきたが、《「 備給 Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい》((フロイト『抑圧』1915)
※フロイト英訳標準版のR.ストラッティ訳では「カセクシス cathexis」と訳される besetzung は、邦訳では「備給」、「充当」などである。だがフロイトは英訳のカセクシスを嫌った、besetzungはもっと日常的語彙だと。
さて父の法の介入とはラカン派的には次のように注釈されることが多い。
父の法の介入、すなわち、最初に、エディプス・コンプレックスの第二段階において先ず母を剥奪し(母の去勢)ーーー《la privation ou à la castration qui porte sur la mère》(ラカン、S5)、続いて、エディプス・コンプレックスの第三段階(最後の段階)において、子ども自身を去勢する。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)
女性の標準的発展については、母との同一化(母との象徴的同一化)にかかわるだろうことを、「女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」」にて示したところなのでここでは触れない。