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2018年8月15日水曜日

ヒステリーの主体は、セックスではなく無条件の愛を求める

一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』)

・・・いまどき珍しい「父の法」への無意識的な支えが瞭然としているヒステリー的主体の「美しい」囀りをみてしまった


【ヒステリー的主体】
どの主体の根にも構造的トラウマがある。…だがヒステリーの主体は、その典型的ヒステリー構造のせいで、他者の性的行為を誘発し事故的トラウマ(レイプ等)を生みだしがちである。…

ヒステリーの場合、性的アクティングアウトは、性−性器的相互関係において、狭められた目標しかない。ヒステリーの主体は、セックスではなく無条件の愛を求める。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2004)


【構造的トラウマと事故的トラウマ】 
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

何か奇妙な・不気味な・外的なものとあるが、これがフロイト概念「異物」であり、ラカン概念の「外密」である。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (ラカン、S16、12 Mars 1969)

ーーそして、《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)。

異物と同じことだが、ラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976) 、あるいは《身体は穴》とも言っている(参照)。

⋯⋯⋯⋯

ヒステリーとその方言である強迫神経症は、精神神経症である。だが症状は二重構造になっており、このヒステリーと強迫神経症の底には、現勢神経症があって、その影響下にもある。そしてこの現勢神経症は原抑圧にかかわるということを、「フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」」で見た。上のバーハウ文にある「構造的トラウマ」とはこの原抑圧による穴 trou のことでもある。《私が目指すこの穴trou 、それを原抑圧 l'Urverdrängung自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

いま症状の二重構造にふれたが、したがって精神病理的なヒステリーや強迫神経症は、その下部にある現勢病理的な、倒錯・精神病・分裂病・自閉症と関係がないわけではない。



この図は、上部は「あなたのなかの男、あなたのなかの女」でいくらか詳述したが次の文に依拠している。

「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではない。エロスとタナトスが混淆しているように、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」2004年、pdf

そして、下部は、「「分裂病+自閉症」/精神病(パラノイア)」を参照のこと。


話を図全体に戻せば、下部におりていくほど、おそらく人はエロス的になるだろうが、とはいえ倒錯・精神病・分裂病・自閉症のなかにも、おのおのエロス的/タナトス的なそれぞれがありうる(たとえば、倒錯におけるマゾヒズム/サディズムはエロス的/タナトス的とたぶんできるのではないだろうか)。

たとえば最近のジジェクは《サディストの倒錯は強迫神経症にとても接近している》(Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?  2016)と言っている。

ところで、21世紀にはいってからのラカン臨床派は、一般化妄想(人はみな妄想)や一般化倒錯(人はみな倒錯)という議論がメインになっていて(参照)、かつてのように神経症・倒錯・精神病等の相違の話はされなくなっている。

とはいえ基本的には以下に引用するような相違はまだ十分に生きている筈である(もっともDSMにおいては神経症概念は消滅してしまっている)。

以下、参考にいくらか列挙するが、すくなくとも倒錯者を自認する蚊居肢散人には、実にぴったり当たっている記述がある。いまボクが記している内容自体、もちろんその実践である・・・


【神経症:ヒステリーと強迫神経症】
神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS,2001)


【神経症(ヒステリー・強迫神経症)と倒錯】
倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を〈他者〉に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって〈他者〉の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』1991)


【精神病と神経症】
精神病者は自分の「汚れた洗濯物(内輪の恥)」をいとも簡単に露呈させ、精神病者以外では打ち明けることに恥じらいを覚えるような猥褻な感情や行為を、精神病者は公にする。

これに対して、神経症者はそのようなものを見えるところから隠し、他者からも、自分自身からも見えないようにしてしまう。抑圧とは、このような事実と関係している。(フィンク, "A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis", 1995)


【神経症・精神病・倒錯者】 
神経症において、われわれはヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


【倒錯と精神病の近似性】
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我(=母の法)へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)


【神経症者と倒錯者の相違】
神経症と倒錯の相違…神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe、PERVERSION II, 2001)


【窃視症者(倒錯者)の特徴】
窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


【分裂病者と精神病者の相違】
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2009)
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)


【精神病における回復の試みとしての妄想形成】 
ラカンの精神病理論において、症状安定化のための三つの異なった理論が分節化されている。想像的同一化、妄想形成、補充(穴埋め suppléance)である。(Fabien Grasser (1998). Stabilizations in psychosis )
病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試みHeilungsversuch・再構成Rekonstruktionである。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)


【主体の故郷としての自閉症】
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001) 

この一般的に流通する「自閉症」概念とはおそらく大きく異なるラカン派的な「自閉症」、その自閉症的享楽は「女性の享楽」とも呼ばれる。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)



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