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2018年7月19日木曜日

「分裂病+自閉症」/精神病(パラノイア)

一年半ほど前に記した「基礎資料:神経症・精神病・倒錯」について質問を頂いている。次の図に対して。



で、分裂病(統合失調症)のポジションはどこですか? と。

わたくしは臨床家ではぜんぜんないから、文献をいくらか読んできた限りでのことを記すけれど、この図はあの記事にもあるように、次の図を日本語に書き直しているもの。




そしてこの図のベースとなる説明図のひとつに次の図がある(参照:How Could Lacanian Theory Contribute to DSM-5? 、Magdalena Romanowicz and Raul Moncayo)。




ここから判断できるように、冒頭の図においては、自閉症のなかに分裂病を含んで図示されている。つまり分裂病とはいくらか軽度の自閉症の位置づけ。とはいえ最も底部には、「catatonia 緊張型分裂病」があるというのが、2009年の段階でのミレールの考え方であり、この観点からは、分裂病が軽度の自閉症というのは、語弊があるかもしれない。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳)


冒頭の図に戻れば、次のような説明図もある。



これは現代の主流ラカン派の観点からも「ほぼ」正統的な記述だろうと、わたくしはいまのところ判断している。「ほぼ」というのは当然のこと微妙な解釈の相違は常にあるからだ。

ジャック=アラン・ミレールはこう言っている。

あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2009)

このミレール発言は、Stijn Vanheule の次の記述とともに読むことができる。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

古典的ラカン注釈においては分裂病は精神病にふくまれて語られることが多かったが、やはりパラノイア的精神病と「分裂病+自閉症」とのあいだには、際立った裂け目がある。

自閉症をめぐってのミレールの注釈もいくらかもかかげておこう。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001) 
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽 la jouissance qu'on dit de l'addiction と呼びうるが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(ミレール、L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

この自閉症的享楽、中毒の享楽とは、「自ら享楽する身体」ともされて(ラカン自身の発言は「身体は穴である」を参照)、次のような注釈もある。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。

・身体の自動享楽 auto-jouissance du corps は、「一のようなものがある Yad'lun」と「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel 」の両方に関連づけられる。(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

「一のようなものがある Yad'lun」とは、ミレールによる「ひとつきりのシニフィアンsignifiant tout seul 」のことで、日本では松本卓也氏がこの概念を流通させている。これは、上の引用にあった《一者の享楽 la jouissance de l'Un》《S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps 》にかかわる。

ミレールは精神病における父の名の排除は、実際はS2の排除だ、とも言っている。《la forclusion du Nom-du-Père peut se traduire comme la forclusion de ce S2.》

ゆえに精神病とは、父の名の過剰現前だと彼は言っており、このあたりは上の図にしめされている注釈とは異なるが、これは「父の名」の捉え方次第。正規の父性隠喩(あるいは法の大他者)として父の名を捉えればあれでよい。


精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

ここでミレールのいう「父の名」とは、いまだ父性隠喩には至っていないが何らかの意味作用を生み出す原「徴示システム système signifiant」としての「最小限の縫合 la conjonction minimale」( S3、11 Avril 1956)点とほぼ等価だと、わたくしは考えている。

あるいは『アンコール』の最後にあるS1→S2につながる以前のS1、これがミレールのいう「父の名」。