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2018年7月18日水曜日

音楽のあらゆる力は、沈黙に頼らなければ、説明できない

音楽のあらゆる力は、沈黙に頼らなければ、説明できない。

ーーとは、ゴダールのパクリである。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

※参照:イマージュの背後の無


アンドラーシュ・シフは「沈黙は音楽のなかで最も美しい」と言っているが(参照)、これはすぐれた音楽家ならおそらく常識であろう。

どんなにすぐれた音楽でも何度もきけば飽きる。最後に残るのは「沈黙」である(ここではジョン・ケージの無響室の話はしないでおこう)。


高橋悠治はこう書いている。

音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)


さらに、

たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー同16 「音の輪が回る」

これ自体、「音楽のあらゆる力は、沈黙に頼らなければ、説明できない」と翻訳しうる。

ラカン派的に言えば、こういうことである。

沈黙は(人が考え勝ちのようには)、声が現れる場に対する「地 ground」ではない。まったく逆に、鳴り響く音自体が「地 ground」を提供する。すなわち「沈黙の図 figure of silence」を感知させてくれる「地」を。(ジジェク, "I Hear You with My Eyes"; or, The Invisible Master、1996)

沈黙を十全に感知させてくれる音楽が最も美しい。それは「無」を感知させてくれるイマージュが最も美しいのと同様である。

「無」とは神である。

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」2012)

ーーもちろん「イマージュとイマージュの隙間」、あるいは「音と音の隙間」としてもよい。一般的にいえば、「表象と表象の隙間」であり、その「表象の非全体pastout」に《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン、S22)がある。

※参照:「形式・イマージュ・無」(ゴダール)