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2018年8月14日火曜日

フロイトの抑圧・ジャネの解離・プルーストの心の間歇

抑圧されたものの回帰とは抑圧のことであり、解離されたものの解消とは解離のことである。


【抑圧(=追放・放逐・防衛)と抑圧されたものの回帰】
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、1896年)
抑圧されたものの回帰と抑圧とは同じものであるということには驚かないでしょうね? Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? (ラカン、S1、19 Mai 1954)
抑圧と抑圧されたものの回帰は、一つであり同じものである。le refoulement et le retour du refoulé sont une seule et même chose,(ラカン、S3、14 Décembre 1955)
症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正当に叙述しうる。Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. (フロイト『モーセと一神教』1939)
抑圧、原初に抑圧されたもの、この抑圧されたものはシニフィアンである。…抑圧と症状は相同的であり、シニフィアンの機能に還元される。Le refoulé, le refoulé primordial, ce refoulé est un signifiant… Refoulé et symptôme sont homogènes et réductibles à des fonctions de signifiants.(Lacan, S11、13 Mai 1964)
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

ーーおそらく多くの精神分析概念の混乱を解く鍵が、フロイトの固着にある。

※参照:「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである

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 【解離と解離の解消】
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

上の文は、以下の引用の末尾にある。その前段を含めてやや長い引用を掲げる。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(……)
プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(……)

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。では「心の間歇」は「解離」の一種なのか。(……)

現在の精神医学は、解離と呼ばれているものを病的解離と正常解離とにわけている。

病的解離とは多重人格障害 personnalité multiple、遁走 fugue(外からは意識的・合目的に見え、実際、遠方まで車を運転していったりするが当人は記憶していないもの)、種々の健忘 amnésie、夢遊病 somnambulisme、フラッシュバック(白昼に外傷的体験が意図せずして意識に侵入し一時これを占拠するもの)retour en arrière,flash-back、離人 dépersonalisation(自己、下界、身体あるいはそのすべての自己所属感が喪失する)などであり、催眠 hypnotisme はその人工的誘導である。覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた。なお、実名で『失われた時を求めて』に登場する精神科医コタールの名を冠するコタール症候群 syndrome de Cotard とは自己、自己身体、外界のすべての存在を否定し、「ない」というもので、解離の極端例とも考えられる。(……)

病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(……)
敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」1990年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveur をももたらしうるものである。(……)
解離していたものの意識への一挙奔入(⋯⋯)。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。

われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)