現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。…例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)
セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)
⋯⋯⋯⋯
以前に何度か記したことけれど、基本的な二項対立の図式はこうだ。
(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げる例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。 しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだから、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が 男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければならない、というわけです。(浅田彰ーー理屈「デリダ追悼」)
もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それらはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性という土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならないというわけですね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデリダの二重の戦略です。(同上、浅田彰)
柄谷行人はこれだけではダメだと言っているが、デリタの基本的な考え方の捉え方は、柄谷も{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}と記しているように、浅田の言っている通り。
デリダのいう「自己再固有化の法則」⋯⋯彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収)
この思考への批判(吟味)は、[「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)」を見てもらうことにして、いまはその前段階の基本のみを記す。つまりラカンの考え方を上の浅田=デリダの図式に当てはめるのみにする。
ラカンにおける主人の言説から資本の言説への移行をめぐる発言は次の通り。
危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?
カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。
結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…
資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)
※この図の注釈はここでははぶく。キョウミないだろうしね。でも最も基本的な注釈のリンクは一応しておこう、→「資本の言説と〈私〉支配の言説」
話を戻せば、ラカンは、学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言っている。それは、ラカンのいう主人の言説から資本の言説への移行の指摘にジカにかかわる。
つまり父は死んだんだ、家父長制なんか事実上とっくの昔に死んでいる。
主人の言説の時代にももちろん資本の論理はあった。だがかつての土台は主人の言説だったという捉え方である。だが1968年の学園紛争を端緒として1989年のマルクスの父の消滅により、それ以後の土台は「資本の言説」になっているという基本的認識が、ジジェク等のラカン派あるいは柄谷行人にある(柄谷は『トランスクリティーク』で「資本の欲動」という表現を使っている)。
上図はラカンの別の表現の仕方なら、次の通り。
ここでLevi R. Bryanのきわめてわかりやすい説明を掲げておこう。
・女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。
・男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。
・反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy)
この男性の論理/女性の論理は、《pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない》(ラカン、 L'ÉTOURDIT、1972)とも記述される。
ラカン的には現状分析として世界は非全体(女性の論理)になったというだけで、右側の形がいいわけではけっしてない。
それについてはジジェクが簡潔に記している。
真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )
さてここまで記してきたことを家父長制という用語を使って書き直せば、次のようになる。
繰り返せば、ここでも最も重要なのは、家父長制が現在まだ土台にあるのか、それとも差異の論理(あるいは資本の論理)が土台にあるのか、という問いだ。見ての通り、土台とは分母にある支配的イデオロギー、その掌で支配的イデオロギーと支配しているかにみえるイデオロギーが争っているという図式。
21世紀の現在においては、家父長制は土台にはないというのがまともな思想家のコンセンサスだと思うがね。世界にはまともな思想家はわずかにしかいないという問題はあるけれど。
柄谷行人の資本の欲動については「資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)」を見てもらうことにして、これをジジェク的に言えば次の通り。
欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)