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2018年10月2日火曜日

女嫌いとセクシャルハラスメントの起源

【母としての女の支配】

女嫌い(ミソジニー)の起源について考えるとき、欠かせないのは原母子関係である。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

よほどの稀な事例を除いて、原初には、母あるいは母親役による女の支配がある。この母は子供にとって全能の権力として現れる。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである (Lacan、S5、22 Janvier 1958)

ーーどんなに愛情に溢れた母でも、常に乳幼児の側にいるわけではない。したがって勝手気ままで制御不能の母なる原大他者の法なのである。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

母は乳幼児の訴え(泣き叫び)に応答しないことが必ずある。そのとき母は「全能の権力者」となるのである。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)

そもそも原母子関係において、子供が原支配者としての母に対してこの受動的立場に置かれ続けたら、主体性は築かれない。

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ーーフロイトは「女性性の拒否」としているが、事実上はなによりもまず「受動性の拒否」である。したがって標準的な幼児は、受動的立場から能動的立場への移行を試みる。

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。

母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)

逆に(主に)溺愛による母の過剰現前という場合もある。

母親への依存性 Mutterabhängigkeitのなかに…パラノイア Paranoia にかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまうumgebracht(貪り喰われてしまう aufgefressen?)というのは、きまっておそわれる不安であるように思われる。フロイト『女性の性愛』1931年)

こうしてラカンは母なる鰐の口という隠喩を言い放つようになる。

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の溺愛 « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

このように原母とは、フロイト・ラカン的には、勝手気ままな、おどろおどろしい存在なのである。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, 1995, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)

ーー「元来彼女のものであったものを奪い返す存在」とあるが、これは出産とともに起こる「母の去勢」に関係する。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

このおどろおどろしい母への恐怖や不安は後年、女一般に対する不安や嫌悪へと移行する。なぜなら《すべての女には母の影が落ちている》(ポール・バーハウ、1998)、つまり《一切女人、是れ我が母なり》(仏典)だから。

以上により、女性嫌悪の起源は、原母子関係における「母としての女の支配」にあると結論づけられる。これがフロイト・ラカン派的観点である。

ここまで記してきた内容から明らかなように、この女性嫌悪は、男にとってだけでなく女にとってもそうである。両性にとって根源にあるのは、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)であり、ミサンドリー (男性嫌悪・男性憎悪)は二次的なものに過ぎない。


【最初の愛の対象・原誘惑者としての母】

もちろん母とはここまで記してきた側面とは逆に原愛の対象の側面もある。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーーフロイトは、母とは原愛の対象であるとともに原誘惑者とも記しているが、これも実は誰もが知っている筈の現象である。

原誘惑者とは、原セクシャルハラスメント者のことである。ハラスメントの原義は侵入である。人は母としての女に原初に侵入されたのだから、後の生で女性が侵入(ハラスメント)される傾向を強くもつのは、これまた「構造的」には当然の帰結である。


ここで中井久夫のトラウマ論から引用しよう。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)

母による身体への侵入は、幼児にとってトラウマ的である。ここでのトラウマの意味は、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》(中井久夫「記憶について」)である。

中井久夫による別の表現の仕方ならば、このトラウマ的記憶あるいはその侵入刻印は、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》(中井久夫「発達的記憶論」)である。

この異物はフロイト語彙でもある。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ラカン派においては、このトラウマ的に作用する身体の上への刻印を、「身体の出来事」(原症状)と言う。

症状(=サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011 )


【女性にとっての構造的「不幸」】

以上、「母としての女の支配」と「原誘惑者としての母」。これがすべての女性にとっての構造的「不幸」である。

この不幸を消滅させるためには、試験管ベービー等の人口子宮導入の徹底化が必要である。究極的には胎児が母なる大他者に支配されている状況自体からも脱却しなければならない筈だから。

かつまた最初の世話役を男(あるいは主夫)にせなばならぬ。もちろんロボット使用という手段もある。だがロボットの形態は男型が好ましい。しかも乳房から乳がでるのではなく、乳はペニスからでる形態がよい。そうすれば「論理的には」男性嫌悪が根源的なものになると同時に、男による女へのセクハラから、女による男へのセクハラが支配的になる筈である。

とはいえそのとき、女性の子宮や乳房は何のためにあるのかという疑問が生ずるには違いない・・・いやいやさらに男と女とはいったいなんなのだろうか、ハテサテ・・・快楽としての性交関係のみ? ああ神様はやっかいな二者(片割れ同士)をおつくりになった・・・

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』)

世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし(蜀山人)

⋯⋯なにはともあれ、次のような状況は、現在の原母子関係に起源を発するこよなき根源性がその底にあり、たんに社会規範による強制のみでは、容易く避けうるものではない。




人はまずこの現実を引き受けなければならない。女性嫌悪と女性へのセクハラの解決策を真に求めるなら、この現実を熟考することから始めるほかないのである。

⋯⋯⋯⋯

⋯⋯⋯ところでYouTubeでとても示唆溢れる映像に出会った。これはヤラセではあろうが、わたくしも40年近く前にはしばしば社内宴会でこれと同じ状況に出会ったのである。





当時勤めていた会社が女性比率、おねえさん比率がとても高い会社だったということもあるが、飲み会となると母権制社会のような感じだった・・・この映像をみて宴の後に新人食いで名高いおねえさんの餌食になった記憶に忽然と襲われたのである・・・いっそ世界は母権制社会に戻したらよいのではなかろうか? 男は下働きとして女たちに仕えるのである。若きニーチェのもっとも重要な師は『母権制論』(1861年)で名高いバッハオーフェンだったのはよく知られている。

いやいやそんな話がしたいわけではない。そもそもこの投稿自体、どうみてもソックリだ、ということがいいたかっただけかもしれない・・・