・・・だそうだ。
邦訳版にも行き当たった。
ところでミニスカとは、セクシャルハラスメントではなかろうか? male gaze、sexual harassment の二語で検索すると、女性にとって、男性の眼差しはセクハラだいう話がいくらでもネット上に落ちているが、逆に男性側から言っても、たとえば歩くミニスカとは、歩くセクハラではないのだろうか?
もちろん大半の男性諸君は(わたくしと同じように)このハラスメントをまずは楽しむということはあるが。
と画像を「ミニスカ」と「制服」ーーわたくしの場合はなぜか制服なのであるーーで探ってみたら実にスバラシイ画像に遭遇した。
ああ、あああ、こんなのありだろうか、ヤラセなんだろうか、仮にそうだとしても実にスバラシイ。若き婦警の歩くセクハラ! 上のスカート丈鑑別診断からすれば、「求めている/挑発的」の中間地帯の水準にあるのでははなかろうか・・・とまた検索してみると、通常は「気のあるそぶり/適切」中間丈のようである・・・
しばらく茫然自失としてしまったが、話を戻さねばならぬ。
ハラスメントの語源は、中期フランス語 harasser (侵略・侵入する、悩ませる)だそうだが、ジジェクによれば、アメリカのインテリたちはハラスメントという語を次のような状況においてさえ使うそうだ。
例えばハラスメント。もちろん私はハラスメントに反対している。しかし私は、それがいかにしばしば両刃の概念であるかにひどく驚かされた。米国での経験が教えてくれたのは、ハラスメント概念はまた、とてもはっきりした階級的側面をもっていることだった。多くのミドルクラスの学者・リベラルたちにとって、ハラスメントは、彼らは下品で攻撃的(侵入的)なふつうの人々の現前に我慢できないということを意味する。ハラスメントを叫ぶことは、上中流クラスの連中--学者・インテリ・リベラル--がふつうの人々を遠ざけておく方法なのだ。(Migrants, Racists and the Left: An Interview with Slavoj Žižek、2016)
この使い方を援用すれば、ミニスカは男性の心に侵入し、悩ますのだから、当然セクシャルハラスメントとしてよい筈である。
もっともミニスカでなくても、女性はなにをしてもセクハラ、存在自体がセクハラだという言い方さえできる。
女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)
女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 la mascarade féminineと呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性féminité のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深 い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)
他者の欲望のシニフィアン(表象)として振舞う「女性の仮装性」とは、 もっと日常語でいえば、ようするに媚態である。
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』)
媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)
ーーここでこうも付け加えておこう、《自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである》(ラ・ロシュフーコー『箴言集』)
ようするに男だけでなく女もほとんど常なるセクシャルハラスメント者であることを人はみな認めるべきではなかろうか?
そもそも女性は好みの男(他者)に眼差されるために、美しくあるいは誘惑的に装ったり振る舞ったりするのではないだろうか。
人がセクシャリティから下りるならまた別の話であることを念を押しておこう。
現在のポリコレ中心主義は、ヘーゲル曰くの《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》 の様相を呈しており、ある意味でハラスメントを難詰する側が悪である可能性を疑ったほうがよい場合がある。
ここでの話題に焦点を絞れば、女性解放運動の問題の核心のひとつは、
追っかけと誘惑はセクシャリティの本質である。"Pursuit and seduction are the essence of sexuality. (Camille Paglia (2011). “Sex, Art, and American Culture: Essays”)
そもそも女性は好みの男(他者)に眼差されるために、美しくあるいは誘惑的に装ったり振る舞ったりするのではないだろうか。
男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
人がセクシャリティから下りるならまた別の話であることを念を押しておこう。
現在のポリコレ中心主義は、ヘーゲル曰くの《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》 の様相を呈しており、ある意味でハラスメントを難詰する側が悪である可能性を疑ったほうがよい場合がある。
ここでの話題に焦点を絞れば、女性解放運動の問題の核心のひとつは、
ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012)
ーーことである。「フェミニスト」カミール・バーリアは、《今日の数多くのフェミニストのあいだで、不幸かつ誤った確信が居残ったままである。すなわち「ジェンダーは、女を制圧するために男たちによってデザインされた社会的構築物だ」という思い込み。そしフェミニストはいまだ言うのである。女を男への地位に前進させる唯一の道は、ジェンダー自体を消し去ることだと》とも言っているが、これもコプチェクの言っていることと共鳴する。
そしてコプチェクや カミール・パーリア観点からなら、さらには次のこともある。
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
ここでさらにパーリアの強烈な言葉を貼り付けよう。
直近のエッセイではこうである。
女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストたちは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。(Camille Paglia (2018). “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”)
ま、カミール・パーリアは過激すぎて日本にはまったく受け入れられない方であり、そして実際ときにひどくポリコレに反することを言っている「フェミニスト」であるが、彼女は多くの場合、とても「正当的なこと」を言ってきたようにわたくしには思える。
男たちは身体的かつ感情的に自らを犠牲にして、女と子供を養い住居を当てがい守ってきた。男たちの痛みあるいは成果は、フェミニストのレトリックには全く登録されていない。連中のレトリックは、男を圧制的で無慈悲な搾取者として描くだけだ。("Vamps and Tramps". by Camille Paglia, 1994)
エロティシズムは神秘だ。すなわち、性をめぐる情動と想像力のアウラである。エロティシズムは、ポリティカルレフトであれポリティカルライトであれ、社会あるいは道徳のコードによっては「固定」されえない。というのは、自然のファシズムはどんな社会のファシズムよりも偉大だから。性関係には悪魔的な不安定性があり、われわれはそれを受け入れなければならない。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”、2018)
いささか中途半端ではあるが、ここで終えることにする。この記事を記すことによって得た最大の収穫は、くりかえせば婦警の画像に侵入harasser されたことである。いまのわたくしの喫緊の課題は、あの画像をじっくりと眺め直し、なぜこんなに鼻の奥にキナ臭いにおいに突き刺され、(下半身ではなく)脳髄のなかのなにかが勃然としてしまったのかを再考することなのである・・・冒頭画像の右側のお尻など、わたくしにはほとんどゼロに等しい刺激しかないのに。