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2018年10月21日日曜日

女というものは、人間にとっての夢である

ジジェクの《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(LESS THAN NOTHING, 2012)とは、ラカン自身が言っているのだな(ジジェクは参照なしで記しているが)。

Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme のテキストは、2017年に初めてーーわたくしの知る限りだがーー、一般公開されている。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

“un rêve de l'homme”を「男にとっての夢」ではなく「人間にとっての夢」と訳したのは、以下の文脈に則る。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

すなわち、女 というものを夢見るのは、男だけではない。女たちも、女というものを夢見る。実際、女たちは男のことなど夢見ていない。夢見ているのは、男に愛される「この私のなかの女」である。つまり女たちが考えているのは、常に「女というもの La Femme」である。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

したがって女というものを幻想し、その本質を探ろうとするのは、男女両性にかかわるのである。

女というものは存在しない La femme n’existe pas。われわれはまさにこのことについて夢見る。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない。(ミレール 、El Piropoベネズエラ講演、1979年)

「女はシニフィアン(表象)の水準では見いだせない」、これが人の生ーーすくなくともエロス的生ーーにおいて、なによりもの核心である。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは喪われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう...(ミレール「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」Another Lacan by Jacques-Alain Miller, 1980)

 ⋯⋯⋯⋯
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)


とはいえ「 女というものは、人間にとっての夢である」したときに、ゲイ(男性の同性愛)はどうなのか、という問いが当然生まれるだろう。

ここでミレールのポリコレ的には問題含みのテキストをも引用しておこう。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることだできるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、他の女にとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)