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2018年10月20日土曜日

自閉症的享楽とはヘテロ享楽である

ラカン派で「自閉症的」という語が使われるとき、現代の流行病「自閉症」とは全く関係がない(参照:だれもが自閉症的資質をもっている ) 。仮に何らかの定義の仕方で、その意味内容が重なるところがありえても、基本的な態度としては「全く関係がない」概念として先ず読むべきである。


【女性の享楽としての自閉症的享楽】

社会的つながりの外部にある殆どすべての症状は、自閉症的享楽の担い手である。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé)

社会的つながりの外部にある症状とは、言語秩序(ファルス秩序)の外部にある享楽、ファルス享楽の彼岸にある他の享楽(=身体の享楽、女性の享楽)のことである[参照]。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

このところ何度か引用しているが、ラカンは「自閉症的享楽」という語を一度しか使っていない。それはセミネール10「不安」に於てである。

丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps propre
ーー原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962 )

「身体自体」、「原ナルシシズム」、「自体性愛」、「自閉症的享楽」が等置かれているのに注目しよう。

その前提で、主流ラカン派のボスであるジャック=アラン・ミレールの次の文をまず読まなければならない。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

ここでミレールが「一のシニフィアン」、「S2なきS1」等と呼んでいるものは、ラカン概念「一のようなものがある Y a de l’Un」の言い換えであり、これはΣ(サントーム)、S(Ⱥ)ーー大他者のなかの穴のシニフィアンーーのことでもある。

そして現在のラカン派において、これらはフロイトの「欲動の固着(リビドーの固着)」(あるいは「原抑圧」)と等価の概念であることが示されている(参照)。



【享楽自体が自体性愛的である】
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)
きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのは、私が dérive と命名したものについて再び性欲論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


【自閉的症状(女性の享楽)とは多形倒錯的自体性愛のことである】
フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的な症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール、L'être et l'un、 9/2/2011)

⋯⋯⋯⋯


閑話休題。ここまでは標準的なラカン派において流通する一般的な理解を掲げた。以下は、あだしごとはさておき(閑話休題)である。


【自体性愛とはヘテロ性愛のことである】
フロイトは、幼児が自身の身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ーーこの後、ラカンは、症例ハンスをめぐって語り、「自体性愛 autoérotisme」に反対する理由を、「異物(異者étrangère)」という語によって説明している。要するに、上の文に現れる「ヘテロ的 hétéro」とは、「異性の」という意味ではなく、「異物の」という意味である。

フロイトは性的現実を自体性愛的と呼んだ。だがラカンはこの命題に反対した。性的現実は興奮・小さな刺し傷との遭遇に関係する。「遭遇」が意味するのは、自体性愛的ではなく、ヘテロ的 hétéro、異物的 étrangèreである。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体性愛的だと言われる。だが、私の観点からは、これはフロイトとその幼児性愛の誤った読解である。

…幼児は部分欲動から来る興奮を外的から来る何か、ラカンが文字「a」にて示したものとして経験する。幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母(母なる大他者)の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005)



【母による「身体の上への刻印」】

《骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]》( Lacan, S23、11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

「身体の上への刻印」とは、幼児の欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)という奔馬を飼い馴らすための最初の鞍《母なるシニフィアン signifiant maternel》《原シニフィアン premier signifiant》(ラカン、S5)とほぼ等しい。

「欲動蠢動」用語はフロイトにおいて、たとえば次のように現れる。

愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入するanlangenden欲動興奮(欲動蠢動Triebregungen) を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

ラカンにおいては、次の通り。

欲動蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre 1962)


ラカンが「幼児性愛は自体性愛的ではなくヘテロ的だ」というときの「ヘテロ hétéro」の核心には、フロイト用語「異物」「モノ」としての母による刻印がある。

この刻印は最も典型的かつ代表的には、母の言葉(ララング)の刻印である(参照)。

最晩年のラカンはそのセミネール25「結論する時 le moment de conclure 」で、次のように言ってさえいる。

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。ララングと呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue »(ラカン、S25, 15 Novembre 1977 )

さてまずフロイトにおける「異物」の使い方をひとつだけ掲げよう。

たえず刺激や反応現象を起こしている unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen異物 Fremdkörperとしての症状 (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そしてラカンによるフロイトのモノの定義である(詳細は「モノと対象a」を見よ)。

(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

ようするに、ヘテロ(異物)の核心は、最も親密な外部にある「母による身体の上への刻印=モノ das Ding」 である。

晩年のラカンの「他の身体の享楽」「他の身体の症状」「異者としての身体」「サントーム(原症状)」等々の表現は、フロイトの「異物」「モノ」の近似概念である。

穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

これらの「女」とは、「母としての女の支配」という表現とともに読むことができる(参照:超自我という穴の名)。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)


ラカンにおける原症状(サントーム)の定義は、「身体の出来事」だが、これは殆ど100パーセント、《母女 Mèrefemme》(ミレール)にかかわる身体の出来事なのである。
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)



【多形倒錯の起源としての母なる誘惑者】

上に女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールの文をいくつか掲げたが、そのなかの一つを再掲する。

フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的な症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

ここで、フロイトによる多形倒錯の叙述をひとつ抜き出そう。

誘惑 Verführung の影響の下、幼児が多形倒錯 polymorph pervers になり、あらゆる性的逸脱に導かれうるという事実は教えられるところが多い。

これは、幼児がその素質のなかにこういう資質を備えていることを示している。こうした傾向が実際に現れても、わずかな抵抗しか受けない。その理由は、性的逸脱に対する羞恥や嫌悪や道徳などのような心的堤防 seelischen Dämme が、幼児の年齢に応じて、まだ築かれていないか、もしくはようやく構築の途上にあるに過ぎないからである。

この点で幼児は、例えば同様な多形倒錯の素質 polymorph perverse Veranlagung をもち続けている「教育を受けていない平均的な女 unkultivierte Durchschnittsweib」とまったく同じような状況に置かれている。こういう女は、普通の条件の下ではだいたい性的に正常なままでいることだできるが、熟達した誘惑者 Verführersに導かれると、あらゆる性的倒錯を好むようになり、自分の性的活動のためにこの倒錯をもち続けるようになる。

娼婦 Dirne は、同様な多形倒錯的性向、すなわち幼児的性向をその職業の目的のために利用している。おびただしい数の娼婦や、その職業に従事していなくとも、娼婦としての特性Eignung zur Prostitution を認めざるを得ない女たちを見るならば、人間はあらゆる性的倒錯への素質を一様に備えているという点に、普遍的人間性や根源性 allgemein Menschliche und Ursprüngliche を認めないのは不可能である。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


「教育を受けていない平均的な女 unkultivierte Durchschnittsweib」と、現在の視点からは、いささかポリコレに反する表現があるが、これは「ファルス享楽のタガメに飼い馴らされていない女」と置き換えて読むべきである。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

すなわち女性の享楽・身体の享楽がファルス秩序の機能が弱まれば顕現する。そのとき人は、隠蔽された多形倒錯的傾向が生じる。


そしてフロイト文に、《誘惑 Verführung の影響の下、幼児が多形倒錯 polymorph pervers になり、あらゆる性的逸脱に導かれうるという事実は教えられるところが多い》とあった。

この文は晩年の次の文とともに読まなければならない。

誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚 Lustempfindungen を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

⋯⋯⋯⋯

以下、母なる誘惑者による身体の上への刻印をめぐって簡潔に書かれているポール・バーハウ2009を掲げておこう。

享楽は自らの身体から来る。とりわけ身体の境界領域(口、肛門、性器、目、耳、肌)から。

ラカンは既にセミネールXIにてこの話をしている。享楽に関する不安は、自らの身体の欲動のなすがままになることについての不安である。この不安に対する防衛が、母なる大他者に対する防衛に移行する事態は、社会構造内部の典型的発達過程にすべて関係している。……

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽(あるいは「享楽の侵入 irruption de la jouissance 」)の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・。

⋯⋯享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)