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2018年10月10日水曜日

超自我という穴の名

超自我とは、エディプス的父にかかわるとするのが通念である。超自我はフロイト概念であり、フロイトを素直に読めばそうなる。

わたくしの知る限りでも、ドゥルーズ 、柄谷行人、中井久夫という優れた思想家の超自我の捉え方は、エディプスの父である。

ところで最晩年のフロイトはこう言っている。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlungen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939 年)

超自我の起源は、父ではなく両親とあるが、最初期に個人の行動を監督するのは、ほとんどの場合、母である。超自我の起源が母であるのは当たり前である。

この立場を取れば、なぜラカン派がドゥルーズ &ガタリのアンチオイディプスの錯誤をしばしば指摘するのかがすぐさま分かる(参照)。

柄谷の憲法超自我論の問題も、彼は憲法の背後にある母性的な天皇制の支えを指摘しているのだから、憲法がエディプス的超自我、天皇制が母性的超自我とすれば、論理的混乱は避けられ、さらに周りからの反発は少なかった筈だったのだが、通念としてのフロイト的超自我に執着してしまったことが惜しまれる。

超自我はエディプスの父だとする思い込みを捨てさえすればよいのである。それだけで多くの思想的混乱が避けられる。

ラカンは初期からこう言っている。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

1958年にはこうある。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

ーー現在ラカン派では「エディプス的父なる超自我(フロイトの超自我)Surmoi paternel œdipien (le Surmoi Freudien)」と「前エディプス的太古の超自我(ラカンとクラインの超自我)Surmoi archaïque pré-œdipien(le Surmoi Lacanien et Kleinien)」という形でも表現される(参照、pdf)。

太古のという表現は、フロイトにとってエスにかかわるという意味である。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンに戻れば、1958年以後には「母なる超自我」という表現は出現しないが、1970年には「母としての女の支配」という表現が現れる。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)

1976年にはこうある。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

この文は、次の文で補って読めば、女という原超自我のことを言っているのが歴然とするだろう。

一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)

ミレールは母なる超自我はS(Ⱥ) だとしている。

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にとても近い。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に近似している。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO, by Leonardo S. Rodriguez)

S(Ⱥ) とは穴Ⱥの代表象ということである。すなわち原穴の名である。穴とはラカンにとってトラウマ=現実界という意味である(参照:トラウマ界)。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)