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2018年10月17日水曜日

ナイーヴなマルチチュード概念のお釈迦

「ナイーヴなマルチチュード概念のお釈迦」という表題にしたが、わたくしは政治学にはまったく詳しくない。柄谷行人とジジェクをいくらか読むだけである。ようは、以下に引用する諸家の考え方を「シンプルに」表現すれば、表題の意味内容をもつだろうということだけである。

⋯⋯⋯⋯

"Pornography no longer has any charm"という表題をもつジジェクへのインタヴュー記事(19.01.2018)に次のような発言がある。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018

2018年1月の半年前のネグリのインタヴュー記事はネット上では見出せなかったが、2018年́8月のインタヴュー記事に出会った。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと溶解する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。…multitudo 概念を断固として使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、multitudoとcomunis 概念を詳述するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri, Interview – August 18, 2018)

これは《政治秩序が形成された時》に、初めてマルチチュードは意味をもつ(コモン comunis が得られる)ということを言っているのだろう。

(わたくしは政治用語には疎遠なのでテキトウに訳していることを断っておかねばならない。)

なにはともあれ、浅田彰によるマルチチュードの訳語は「有象無象」だそうだが、有象無象だけではどうしようもないと言っていると捉えてよいだろう。

柄谷行人は 、帝国 v s .マルチチュードという両極図式に基づいてマルチチュードがネットなどを介して連帯しながら世界を変えるのだと主張するネグリ&ハートの議論は単純に過ぎると批判し 、草の根からのボトムアップだけではなく国際連合のようなかたちでのトップダウンも重要なのだということを強調するようになる 。それはまったく正しい 。(浅田彰、ゲンロンインタビュー 、マルクスから (ゴルバチョフを経て )カントへ ─ ─戦後啓蒙の果てに、2016年)

ジジェクは次のような内容を言い続けている。

ドゥルーズ とガタリによる「機械」概念は、たんに「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)
カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)
真の「非全体 pastout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれることである。(ジジェク、(LESS THAN NOTHING, 2012)

ーーラカンによる《pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない》(ラカン、 L'ÉTOURDIT、1972)の議論については「家父長制は現在の支配的イデオロギーではない」を参照されたし。 

ようするに体系性のない「有象無象」の政治運動は、「資本の論理」にはけっして対抗できない、ということをジジェクは言い続けている。

欲動は、より根本的にかつ体系の水準で、資本主義に固有のものである。すなわち、欲動は全ての資本家機械を駆り立てる。それは非人格的な強迫であり、膨張されてゆく自己再生産の絶え間ない循環運動である。我々が欲動のモードに突入するのは、資本としての貨幣の循環が「絶えず更新される運動内部でのみ発生する価値の拡張のために、それ自体目的になり瞬間である。(マルクス)(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006)


冒頭の文に、《ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ》とあったが、つまりは人間には主人が必要だということだ。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)

「世界共和国」の思想家柄谷行人の言い方ならこうである。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)
近代国家は、旧世界帝国の否定ないしは分解として生じた。ゆえに、旧帝国は概して否定的に見られている。ローマ帝国が称賛されることがままあるとしても、中国の帝国やモンゴルの帝国は蔑視されている。しかし、旧帝国には、近代国家にはない何かがある。それは、近代国家から生じる帝国主義とは似て非なるものである。資本=ネーション=国家を越えるためには、旧帝国をあらためて検討しなければならない。実際、近代国家の諸前提を越えようとする哲学的企ては、ライプニッツやカントのように、「帝国」の原理を受け継ぐ者によってなされてきたのである。(柄谷行人エッセイ「帝国の構造」2014)

ジジェクと柄谷行人の考え方は、究極的には、次のラカンの表現に収斂する。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

ようするに「帝国」の復活は御免蒙るが、「帝国の原理」がなければ、人間には「コモンcomunis」が得られないという含意をもっている。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』) 
共和制なき王はない。そして王なき共和制はない。…daß kein König ohne Republik und keine Republik ohne König bestehn könne (ノヴァーリス『信仰と愛 Glauben und Liebe』1798年)

もっとも真の王(権威)となるのは、ひどく困難な仕事ではある。《あなた(王)が他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘るだろう Si vous êtes pris dans le rêve de l’autre; vous êtez foutus》(ドゥルーズ『創造行為とは何か』1987)