このブログを検索

2018年12月6日木曜日

マザコンがめだよお

女なんかめじゃねえよお」ってのは、女にとってもめがあることだよ

だいたい「女なんかめじゃねえ」なんて、かりに詩のなかのことであれ、めじゃないと思っている人間はいわないね。

ニーチェの《能動的忘却 aktiven Vergeßlichkeit》(『道徳の系譜』)ってのがあるが、あれはその数頁後に出てくる次の文と読まなくちゃいけないのと同様。

記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)

ーー忘れられない記憶があってそれが「反復強迫≒永遠回帰」するから、能動的忘却をいったのさ、ニーチェは。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」⋯⋯すなわち快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang ⋯⋯この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年〉


谷川俊太郎は自ら言っているように徹底的なマザコンなのさ。「女なんかめじゃねえ」どころじゃまったくないのを自覚している。

子どもが持っている基本的な語彙でけっこう世界は表現できるんです。それは、ぼくの中に3歳や5歳、10歳の子どもがいて、大人の世界を馬鹿にしているゆえかもしれない。マザコンゆえの幼児性ともいえるのだろうけれど。(谷川俊太郎、インタビュー、(語る 人生の贈りもの)朝日新聞、2018)
一人の女性とうまくいかないと、すぐに次を求める。常に女性がそばにいて欲しいわけですよ。これは簡単に言えばマザコン。母性を求めてしまう。母子関係の繰り返しみたいなものですよね。相手を人間として、ちゃんと見ていないんですよね。(同インタビュー、朝日新聞、2018)
ぼくは、ひとりっ子で、
すごい母親っ子だったんです。
母親はけっこう厳しかったんだけど、
わりと、父親が家庭をかえりみないで
ずっと外にいる人だったから、
その代わりにぼくを可愛がったような
ところがありました。
そのせいでぼくは、
すごくマザコンだったんですよ。

自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど
恋愛というものがいつでも
自分の母親の願望に
すごく染められていた、というか。

ーー糸井重里インタビュー「谷川俊太郎、kissなどを語る
(佐野洋子さんに)「あんたは女が一人いれば友達は全然いなくていいんじゃないの」と言われてね、そういうことがパッと見えちゃう。自分では意識してなかったんですけど、本当にそうだったからショックでしたね。(「(語る 人生の贈りもの)谷川俊太郎:10 佐野洋子さんに見抜かれた本質」


もし「女なんかめじゃねえ」をマジとりするなら、「女の三界」で記したけれど、イマジネールな女なんかめじゃねえ、という心境にはなってるのかも、な。






人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

ーー谷川の「なんでもおまんこ」ってのは、母なる大地との融合の話だよ、ぜんぶ。

おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ


母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
人はみな女の掌の上にいる。

Le monde appartient aux femmes.
C'est-à-dire à la mort.
Là-dessus, tout le monde ment.

ーーPhilippe Sollers Femmes