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2019年1月20日日曜日

幼少の砌の傷への固着

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

少し前にも記したけれど(参照:「女性の享楽とは死の欲動のこと」)、フロイトの死の欲動(死の本能)は、戦争外傷神経症が起源にあることを忘れてはならない。第一次大戦最後の年の1918年夏、ブタペストでの精神分析学会には、ドイツ=オーストリア軍の戦争神経症患者のあまりの多さに、軍の指導的将軍たちが出席するという異常事態が起こったわけで、ここにフロイトがそれまで固執し続けていた「快原理(快原則)」に対する問い直しの主要な起源の一つがあるのだから。

次の古井由吉の文は、いままで何度も引用してきたけれど、フロイト・ラカン派の「死の欲動」を把握するためのとてもすぐれた導きの糸だな。


【幼年の砌の傷への固着】
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


この文脈における、フロイトの核心的文を二つ掲げよう。


【事故的トラウマへの固着】
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


【病因的トラウマへの固着】
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは病因的トラウマについては五歳までの出来事としているけれど、反復強迫(死の欲動)は、事故的トラウマも含めて考えれば、五歳までには限らない。それは、フロイトが《外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着がその根に横たわっている》と言っているように。

核心は、《感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃》の外傷的出来事への固着だ(場合によっては、詩人的資質をもつ者は生涯、免疫の薄いままでありうる)。あるいは成人以降でも、中井久夫の言うように、《ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない》。これが、事故的トラウマも含めたトラウマへの固着による反復強迫の主要要因である。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


このトラウマ的出来事は、主に「静止画像」に近接した不気味なものとして居残る(置き残される)。フロイトにおいて「居残る」あるいは「置き残される」の意味は、身体的な経験が心的装置に移行されず、《暗闇のなかに異者(異物)のようなものとして蔓延る》(フロイト、1915)ということである。

そしてこの不気味な異物(ラカンの対象a)が反復強迫をもたらす。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

ーーなによりもまずこの内的反復強迫がタナトスである。この基本さえ現在ではほとんど忘れられているが。それはフロイト研究者においてさえそう感じざるをえないときがある。あいつら、精神分析のなにを研究してんだろ、と。

ボクはなんどか記したけど、三歳の時の「鎮守の森」静止画像に徹底的に悩まされたんだな、18歳の夏に女とはじめて性交してすこしは収まったんだけど。




ーーいやあ、いまでもあんまりじっくりは眺めたくないね・・・


中井久夫の「静止画像」とは、フロイトのいう隠蔽記憶(スクリーンメモリー)とほぼ同じものと扱いうる、《その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。》(フロイト『モーセと一神教』)。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。(中井久夫「私の三冊」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫の幼児型記憶とは、フロイトの次の文とともに読むことができる。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)

そして、フロイトのいう《幼児期の純粋な出来事的経験》が、ラカンのいう原症状(サントーム)としての身体の出来事である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

中井久夫は三歳までの自らの「静止画像」を10枚あげているのだけれど、ラカン的に言えば、この画像はたんなる静止画像ではない。

隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4、30 Janvier 1957)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象 représentation と呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation(=欲動代理) を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧(=リビドー固着)の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。(ラカン、S11、1964、03 Juin 1964)


ボクにとっては、バルトの「ゆらめく閃光 un éclair qui flotte」という表現がボクの何枚かの静止画像によく合致する。

・・・かなりひどい高所恐怖症があるんだけどさ、なんどもツレの女たちに笑われたよ。

外部(現実)の危険 äußere (Real-) Gefahr は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。
※上文註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実的不安 Realangst に幾分か欲動不安Triebangstがさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

いいな、きみたちは。面の皮がとっても厚そうで。

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さて、これらの文脈から読み換えれば、古井由吉の「幼年の砌の傷への固着」とは、「トラウマへのリビドー固着」のことである。

トラウマの記憶は、中井久夫自身、かならずしも視覚映像ではなく、「共通感覚」・「原始感覚」という形で表現している。

外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


とはいえ、「静止画像」とその「反復強迫」から、人はまず「死の欲動」を考えたらよいと思う。幼少期の静止画像って少なくとも数枚は誰にでもある筈だ、よっぽど面の皮が厚くなければ。フロイトはこの面の皮を「刺激保護壁 Reizschutzes」と呼んだけど、古井由吉が言ってるように静止画像がないヤツのほうが病気だよ、《幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される》。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

この文脈のなかでラカンはこう言うのである。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ーーこの文は、ふたつともまさに反復強迫のことを言っている。

※参照:フロイトの「自動反復 Automatismus」とラカンの「現実界」


⋯⋯⋯⋯

1937年生れの古井由吉において「幼年の砌の傷への固着」の重要な一つは、戦争体験である。

僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
焼け跡で交わる男女⋯⋯焼き払われると、境がなくなってしまうんですね。敷地と敷地の境も、町と町の境も、それから時間の境もなくなってしまう。そういう無境の中で、男女が交わる。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

この「静止画像的光景」だろう記憶が、作品のなかで「昇華」の形で表現されているのである。

どこかの部屋で、先の男女が裸体を合わせている。ひとしきりやみくもに愛しあっては、お互いに興奮からこぼれ落ちて、まわりのひと気なさに、馴れぬ耳を澄ましている。そのつど熱の吸い取られていくのをそれぞれに不思議がって、ますます熱したみたいに肌を押しつける。 (古井由吉『山躁賦』無言のうちは)