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2019年2月26日火曜日

家父長制の彼岸の国日本

家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)

たまたま拾ったんだが(参照)、上野さんってのは実にうまいよ、こういった格言風の言葉を言い放つのが。

この文の前後関係は不詳のまま記すけど、で、反家父長制だったらどうなんなんだろう?

反家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を「恐怖すべく」育てあげるシステムのことである。

ーーで、いいのかな? もう一人の「すぐれた」フェミニストはこう言ってるけど。

・大いなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。

・私が言っているのは、男たちは母による支配から妻による支配に向かうということだ。これが男たちの生の恐怖である。そしてフェミニズムはこの事実に目を塞いでいる。(カミール・パーリア Camille Paglia Vamps and Tramps、1994年)

カミール・パーリアは、上野さんがオキライな吉行が大昔に言ったことと似たようなこと言ってるんだよな。

現在の天下の形勢は、男性中心、女性蔑視どころか、まさにその反対で女性が男女同権を唱えるどころか、せめて男女同権にしていただきたいと男性が哀訴嘆願し失地回復に汲々としている有り様だ。(吉行淳之介「わたくし論」1962年)

パーリアなんかどうでもいいから、日本においての家父長制の彼岸を、是非、千鶴子さんの切れ味鋭い日本語で言い放ってほしいな。

そもそも柄谷やら浅田やらは日本は家父長制じゃないってむかしから言っているわけで、一神教社会向けのパーリアなんか参考にならないから、やっぱり上野さんにタヨラナクチャナ。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)


上野さんがオスキラシイ中井久夫だってこう言っているわけだし。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年)

日本ってのはどっちかっていうと、エディプス的な「言語による経典が絶対の世界」ではなくて、昔から母権制に近似したシステムなんだろうな、たぶん。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」


でも2018年になってもなんで上野さんこんなこと言ってんだろ?

わたしは目を瞠(みは)った。「家父長制と闘う」「ジェンダーの再生産」「自分を定義する」……。かつて女性学・ジェンダー研究の学術用語だった概念が、日常のことばのなかで使われている。(朝日新聞、2018,05,23

たぶん「家母長制と闘う」の誤表記なんじゃないかな、アニミズム的日本社会が、家父長制であるわけないし、安倍やらの自民党連中やらにオチンチンあるなんて、まさか上野さん考えてるわけあるまいし・・・

そういえばパーリアってこんなこと言ってんだよな、日本ではゼーンゼン受け入れられないだろうけどさ。

・判で押したようにことごとく非難される家父長制は、避妊ピルを生み出した。このピルは、現代の女たちにフェミニズム自体よりももっと自由を与えた。

・フェミニズムが家父長制と呼ぶものは、たんに文明化である。家父長制とは、男たちによってデザインされた抽象的システムのひとつだ。だがそのシステムは女たちに分け与えられ共有されている。(Camille Paglia、Vamps & Tramps、1994年)

………

以下、参考(?)のために、「引き出し」から抜き出しておこう。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

⋯⋯⋯⋯

家父長制と男根中心主義は、原初の全能の母権システム(家母長制)の青白い反影にすぎない。 (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、孤独の時代における愛 Love in a Time of Loneliness、1998)
享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

フェミニズムと家父長制の打倒という文脈において、異なった種類の社会、より愛に溢れ、穏和で人間的な社会、すなわち女性的社会の探求があった。この運動において、母なる自然への生態学的回帰運動と歴史的人類学の誤った章との混淆が、もう一つの神話、すなわち母権制社会の神話を生み出した。

見たところ、この母権制社会 matriarchal societyは、他のどんな「支配体制 [-archy]」とも大きく変わるところはない。単に女たちが権力をもつ社会である。もっともこの権力ははるかに平和的に施行されるという想定があるが。

しかしながら、権力構造自体はほとんど何も変わらない。実際の問いは、この母権社会はほんとうにそんなに平和を愛する社会なのかである。エリアス・カネッティによれば、権力は常に延期された暴力である。女たちがこの例外である筈はない。…

母権制希求という解決法は、まったく誤った歴史の理解に基づいている。母権社会は、漠然としたロマンティックで、パステルカラーの色合いでしばしば語られるが、そんなものは決して存在しなかったのである。…

解放運動とフェミニズムの影響の一つは、多くの女性研究者が原初の母権的大陸を見いだそうとする希望の下にこれを主題にしたことである。イブリン・リードはその代表的一人だった。米国の社会学フェミニストのリードは、彼女の代表傑作『女性の進化 Woman's Evolution』をめぐって20年間、仕事をしつづけた。そして彼女は驚きを以って見出したのである。その結論とは、彼女が期待していたものとは全く異なった、専制的な女性の支配だった。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、Love in a Time of Loneliness、1998)