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2019年2月25日月曜日

なぜエロス欲動は死の欲動なのか

ラカンはフロイトに反して、エロス欲動もタナトス欲動も、実質的に(潜在的に)死の欲動だとしている。

攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

これはいわゆるラカンの欲動一元論であるが、以下、フロイトの叙述を追っていけばラカンのように考えざるをえないことを示す。


【自己破壊運動と他者運動】

フロイトにとってマゾヒズムは自己破壊欲動である。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

1919年の『子供が叩かれる』までのフロイトに反して、1920年以降のフロイトにとってマゾヒズムはサディズムに先立つ。 それについては、1933年に次のような決定的言明がある。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus……

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

1924年には、原サディズムと原マゾヒズムをほぼ等置している。この等置は(論理的には)タナトスとエロスの等置とさえ捉えうる、とわたくしは考える(エロスとタナトスについては後述)。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズム primären Masochismus に合流する。(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

ここでは、自己攻撃欲動としての原サディズム≒原マゾヒズムから投射されて外部に向けられた攻撃欲動を「二次サディズム」と呼ぶことにする。そしてその二次サディズムが内部に向け換えられて退行したものが、上に示されているように「二次ナルシシズム」である。この二次ナルシシズムが、原マゾヒズム≒原サディズムに合流する。

ここまでを図示すれば次のようになる。





フロイトは繰り返し強調している、人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。つまり起源としての原マゾヒズムを外部に投射したものが(二次)サディズムである。

こうして、攻撃欲動(死の欲動)とは自己破壊欲動(原マゾヒズム)が淵源にあり、他者破壊欲動は二次的なものという考え方を晩年のフロイトはもっていた、とすることができる。


【エロスとタナトス】

ところでフロイトは次のように記している。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

最も原初的な以前の状態とは、フロイトにとって子宮内生活である(詳しくは、「子宮回帰運動」を参照のこと)。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎Mutterleib への回帰運動 (子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これは生きている存在には不可能な究極のエロスである。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー「融合」とあるが、フロイトの最も基本的な「エロス/タナトス」の定義は、「融合/分離」である。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


 だが究極の融合をしてしまえば、主体の死が訪れる。

エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)

すなわち究極のエロスにおいては、「一」はなくなってしまうのである。したがって自立を目指す分離欲動(タナトス)が生じる。

社会政治的な面でもこれは同様である。

ヨーロッパ共同体が融合・統合(エロス)に向えば向かうほど、分離・独立(タナトス)のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness, 1998年)

このようにしてフロイトの叙述を追ってゆけば、タナトスが死にかかわるのではなく、むしろ究極のエロスが死であると捉えうるのである。そしてこの究極のエロス=死こそ、ラカンの究極の享楽である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


こういった思考の流れのなかで、ラカンは享楽と死の欲動(死の本能)を等置しているのである。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」のは、上にも記したように1919年までのフロイトは、サディズムをマゾヒズムに先立つものと見なしていたからである。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである(フロイト『子供が打たれる』1919年)

上にも一部引用したが、『性欲論』の1924年に追記された註にて、フロイトは明瞭に自らの転回を語っている。

後に心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

以上により、全体図としては次のように図示できる。






【死の廻りの循環運動としての死の欲動】


別の示し方をすれば、究極のエロス=死の廻りを絶えまなく循環運動するのが、死の欲動である。

フロイトは「エロス/タナトス」を、「愛/闘争」、「融合/分離」とする以外に、「引力/斥力」ともしている。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここで挿入的にフロイトのエロス/タナトス語彙群図を示しておこう(参照:「受動性と能動性(女性性と男性性)」)。




話を戻せば、エロスの引力に誘引されながらも、究極のエロス=死に対して斥力を人はもつ。これゆえの循環運動である。

したがってラカンは、欲動=享楽の漂流とする。

私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

あるいは、《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534)

享楽の漂流とは、究極の享楽(究極のエロス)の彷徨いであり、死の漂流である。

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

これがラカンにとっての死の欲動である。

ここで上に引用した文を再掲しよう。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

まずここでは不可能な大他者の享楽=不可能な(究極の)エロスとある。そしてこの両者がありうるのは死でしかないと言っている。

「大他者の享楽はない」のラカンマテームはȺ(穴)である。

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(Lacan,S23, 16 Décembre 1975)


したがって上の二文は、ラカン派でしばしば使われるトーラス円図の説明としても読める。





-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

トーラス円図とは、ようするに、無意識の主体$が大他者の穴Ⱥの穴埋めに励む図である。ここで最も注意しなければならないのは、大他者は他人や象徴界というだけではなく、自らの身体でもあることである。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

だが、主体側の穴であれ、外界側の穴であれ、いくら穴埋めしても究極の融合をすることは不可能である。くり返せば、究極の融合=究極の享楽=究極のエロスとは死でしかない。

トーラス円図式を簡略化して   A あるいは  Ⱥ と記されることもあるが、 菱形紋とは、エロスとタナトスの欲動混淆マークとしても捉えうる。

菱形 losange のもつ性格…Vは分離(disjonction) であり、Λは同一化(結合conjonction)である。(ラカン、セミネール10 13 Mars 1963)

 A をここまで記してきた用語を代入して注釈図として示せば次のようになる。





したがって上に示したトーラス円図自体が、死の欲動図として読みうるのである。

最後にもう一度次の文を読んでみよう。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

生きている存在には不可能な究極のエロスを回復しようと試みること。それが死の欲動=反復強迫の淵源である。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ところで大他者にはなぜ穴があいているのだろう。それは「子宮回帰運動」に文献列挙があるが、ここでは原大他者(母)に焦点を絞って、トーラス円図で示しておこう(ラカンにおいて$マテームは、本来は出産外傷後に生じるのではなく、言語の世界に入場したとき(三歳前後)の主体を示すのだが、ここでは厳密さを期さずにこのマテームを使用した)。





最初の円を具体的に示せば、次の状態である。





Sとは、「享楽の主体 le sujet de la jouissance S(原主体 sujet primitif)(セミネール10)である。そのほか、要点だけいくらか引用しておこう。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

⋯⋯⋯⋯

なおここでは触れえなかった相として、フロイト・ラカンにおける死の欲動・反復強迫関連語彙群を「フロイト・ラカン「固着」語彙群」から示しておく。




⋯⋯⋯⋯


※追記

なおフロイトのマゾヒズム論を最も深く正面から読んだ思想家だろうドゥルーズは、次のように図示しうる思考をしている(参照:ドゥルーズの死の本能/死の欲動)。


上の図の欲動混淆とはフロイト概念である。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

ようするにドゥルーズは、タナトスを二つに分けたのである、死の欲動/死の本能に。そして純粋状態のタナトスとは、ドゥルーズにとって「永遠回帰」である。そして現在、上に示したリビドー固着=サントーム語彙群は、ジャック=アラン・ミレールにとって永遠回帰である。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

そしてここでの記述から分かるようにラカンの菱形紋とは、永遠回帰マークとして捉えうる。