このブログを検索

2019年1月30日水曜日

受動性と能動性(女性性と男性性)

以下、主に「受動性と能動性(女性性と男性性)」をめぐる文献集。

「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。…

これらは、男性と女性の対立ではなく、能動性と受動性の対立として解釈するほうがはるかに重要である。しかしながらこれは、受動性が女性性、能動性が男性性を表すことを意味しない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」、2004年)

図示すればこうなる。



これはほぼフロイトの記述に則っている。フロイトから列挙しよう。


【欲動混淆】

まず先に欲動混淆の記述を掲げておく。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

欲動混淆とは、エロスとタナトス混淆であるが、男性性女性性混淆、能動性受動性混淆の相を代表しつつ、以下にあらわれる二項対立語彙すべての混淆もある。



【融合と分離(攻撃)】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【愛と闘争(破壊)】
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【引力と斥力】
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【受動性と能動性】
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質 passiver Natur のものである。幼児は母によって授乳され、食物をあたえられて、体を当たってもらい、着せてもらい、なにをするのにも母の指図をうける。小児のリビドーの一部はこのような経験に固執し、これに結びついて満足を享受するのだが、別の部分は能動性 Aktivitätに向かって方向転換を試みる。母の胸においてはまず、乳を飲ませてもらっていたのが、能動的にaktive 吸う行為によってとってかえられる。

その他のいろいろな関係においても、小児は独立するということ、つまりいままでは自分がされてきたことを自分で実行してみるという成果に満足したり、自分の受動的体験 passiven Erlebnisse を遊戯のなかで能動的に反復 aktiver Wiederholung して満足を味わったり、または実際に母を対象にしたて、それに対して自分は活動的な主体 tätiges Subjekt として行動したりする。(フロイト『女性の性愛 』1931年)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)



【女性性と男性性】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

ーーここに男性性と女性性の混淆、能動性と受動性の混淆の記述があることに注意しよう。



【取入と排出】
おそらく判断ということを研究してみて始めて、原欲動興奮 primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれる。

判断は、もともと快原理にしたがって生じた自我への「取り入れ Einbeziehung」、ないしは自我からの「吐き出し Ausstoßung 」の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。
肯定Bejahung は、融合の代理 Ersatz der Vereinigungとしてエロスに属し、否定は Verneinung は排出(吐き出し)の後裔 Nachfolge der Ausstossung として破壊欲動に属する。(フロイト『否定』1925年)

※参照
ヒステリー的子供は、大他者から十分に受け取っていない。そして大他者によって取り入れられようと欲する、絶えまない要求主体となる。

強迫神経症的子供は、あまりにも多く受け取り過ぎている。そして大他者から可能な限り逃れようと欲する、拒否・拒絶主体となる。(ポール・バーハウ、OBSESSIONAL NEUROSIS、2001)


【マゾヒズムとサディズム】
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ーーフロイトにおけるマゾヒズムの捉え方は錯綜しており、より詳しくは「エロス欲動という死の欲動」をを参照。

以上により、次のように図示できる。





さてここでもうひとつ、二項対立語彙を掲げる。


【分離不安と融合不安】

◆分離不安
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

 ーーこの相におけるフロイト・ラカンの発言の詳細は、「子宮回帰運動」を参照のこと。


◆融合不安

以下に現れる「貪り喰われる不安」は「融合不安」とすることができる。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)

ラカンにおいては、この融合不安をめぐって、繰り返されるヴァリエーションがある(参照:貪り喰われる不安)。

この融合不安とは、母なる原支配者に対して受動的立場におかれる不安(受動不安)だとすることができる。原初の二者関係的母子関係においては、母は能動者(男性性)、幼児は男女両性とも受動者(女性性)に置かれるのである。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

ここまでの記述にしたがって、次のようにまとめて図示できる。




【エロス人格とタナトス人格】

人間には、常に左項と右項の混淆があることを忘れてはならないが、わたくしの考えでは、幼少時に分離不安を強く抱いた者は、エロス人格となり、反対に溺愛等による融合不安を強く抱いた者は、タナトス人格になる傾向をもつ。

分離不安と融合不安は、二つの「原不安」であり、母という語を使っていえば、「母なる大他者」が必要とされるとき居ないこと(不在)による不安が「分離不安」であり、「母なる大他者」が過剰に現前することによる不安が「融合不安」である。

次のラカンの発言は主に幼児の分離不安にかかわるだろう。

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、S5、15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)


二つの原不安としたが、分離不安が融合不安に先立っているのは間違いない。

(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

したがって明らかにタナトス人格ーーつまりエロス(融合)不安人格ーーとみえる人物にも、その底にはエロスへの希求ーー分離ではなく融合を求める性向ーーがあるはずである。

ここでもうひとつ発達段階的に図示しておこう。



※原トラウマ等についてのフロイト・ラカンの考え方は、「子宮から子宮へ」を参照。


話を戻せば、たとえば、天災時には、ほとんどすべての人間に一時的にせよエロス感情が生まれるだろう。天災とは、人間が自然に対して受動的立場に立たされる出来事であると同時に、かつて馴れ親しんでいた環境から分離させられる経験でもある。

天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)

このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)

⋯⋯⋯⋯

以上、ここで示した図は、ひとつのモデルにすぎないが、女性性と男性性の真の意味合いを問うときにある程度は役に立つだろうと思う。大切なのは、左項、右項の混淆がどの人間にもあることである。そしてその混淆比率の具合である。時代によっても変わる。

たとえば女性解放運動とは女性の自立運動(独立)の相が大きいだろうから、現在の女性たちは、かつての女性に比べて、大きく受動性から能動性への移行しているだろう。図式にしたがえば、その現象はエロス(愛)からの離反であるとすることができる(参照:「愛のビジネス」の時代)。




ジャック=アラン・ミレールは、フロイト・ラカンに従いながら、《人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する》としている。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)

⋯⋯⋯⋯

なお、ここでの記述は、死の欲動(タナトス)は、実際は文字通りの「死」の欲動ではなく、むしろ究極のエロスが死である、という前提に立って書かれている(参照)。