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2019年2月22日金曜日

母胎内における身体の記憶

「身体の記憶と身体の出来事」から引き続く。

フロイトは、出産外傷 Trauma der Geburt を、「原トラウマ Urtrauma」、「原固着 Urfixierung」と呼んでいる(『終りある分析と終りなき分析』1937年)。

ラカンの原初に喪われた対象としてのラメラ lamelle も、「新生児になろうとしている胎児を包んでいる卵の膜」としているように事実上、羊膜のことだ。

つまり両者にとって出産外傷が、原トラウマ(身体の出来事)ということになる。現在に至るまでラカン派は(私の知る限り)この範囲のことしか言っていない。

例えば、出産直後の身体の出来事は羊水の吐き出しであり、それに引き続く空気吸入、母乳吸入がある。この観点のもと、ラカン研究者は2017年にこう言っている。

(新生児における)呼吸システムへの最初の空気吸入、消化システムへの最初の母乳吸入は、おそらく外傷体験と呼びうる。(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan by Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt, 2017年)


だが中井久夫は、1996年に既に「母胎内の」身体の出来事を指摘している。

少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


さらに2003年に書かれた「母子の時間、父子の時間」には、まさに「胎内の記憶」という表現が現れる。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)

前回みたように、身体の記憶は定義上、反覆強迫する。「胎内の記憶」である母親の心音、「一分間七〇ビートの音楽」ーーようするにアダージョであるーーの快適さの起源として、母胎内における「身体の上への刻印」(リビドー固着)の知らぬまの反覆強迫がある、と言いうるかもしれない。

他にも中井久夫が、人間がいちばん休まる場所として「アルコーヴ」と言うとき、おそらく子宮内に思いを馳せているのではないか。

(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」1993年)


さらにもっと直接的に「母胎の入り口の香り」という表現さえある。

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)

これらが中井久夫の説く、人間にとっての「原」身体の記憶である。やわらかな明るさに包まれたり菌臭を嗅いだりして気持ちが落ち着く淵源は、母胎内の記憶に関係する。ひょっとしてそうかもしれないと考えるだけで、世界は異なって感じられることはないか。

ーーどう異なるって? 蚊居肢子が二年ほどまえ悟ったのは、「女はエライ」であり、「なんでもおまんこ」だ。それ以後の蚊居肢ブログは、常にこの二つの廻りを反復強迫シテイル・・・モハヤソレシカナイノデアル・・・

何度か繰り返し示しているのでもう説明抜きで貼り付けておくが、次の図が決定的なのである。

(子宮回帰運動)




ーー男性のみなさん、ハヤクオ悟リニナッテクダサイ! 
「女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut」( ミュッセ )です。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

誤解しないでください、「女というものは存在しない」を。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、 Des semblants dans la relation entre les sexes,1992)

芸術家のみなさん、「美は現実界に対する最後の防衛 la beauté est la défense dernière contre le réel」(ミレール)です。

言い換えれば、美は原トラウマに対する最後の防衛です。
女という場の空虚に対する防衛としたっていいです。

さらに即物的に換言すれば、美はおまんこに最も近接した昇華です。
美はそこにしかありません。

芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。…色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。(佐藤春夫「永井荷風」1952年)


大切なのはキノコの匂であり生垣であり籠であり栗であり神酒です。それを悟っときのみ灌木も丸太もヒョウタン磨きもそれなりに価値がありませう・・・


灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」

詩人や小説家は常に森の鞘、森の裂け目、谷川、分れめをまず最初に思考しなくてはなりません。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子『道徳経』第六章「玄牝之門」福永光司訳)

そのときのみ腰の鉈は機能します。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

杣道を熟知しなくてはなりません!

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

熟知のためには若いうちからの念入りな修業が必要です。





熟知とはじつはソマミチの迷宮に迷うことなのです!

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)



「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)


・・・ええっと、何の話してたんだっけな、まあいいや。

私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

ーーこのラカンの言い方を援用すれば、人は、自分では知らぬまに、己の身体の記憶を反覆している。場合によっては子宮内の身体の記憶を。「彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es」(マルクス『資本論』)。

人は、忘れられたものを「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復 wiederholenしている。((フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)