2019年3月7日木曜日

主人の方言

ジジェクの次の文を「深読み」してみよう。

ニューヨークには「私どもは奴隷です Slaves are us」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です Slavery is its own reward!」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)

「深読み」としたが、ここで言いたいのは、この文のなかには、前回示した天秤図(自己破壊ー他者破壊)の変奏があるということである。




私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

つまりジジェク文において、主人(重役や医者や弁護士)の他者の道具(隷従)への反転が示されている、「主人と奴隷は時に紙一重であり、天秤の左右の皿である」。

(医者が主人というのは奇妙かもしれないが、医者の言説(医者の社会的結びつき)とは、ラカン派ではかつてから「主人の言説」とされている。その意味合いは→[参照」)








この天秤的観点は、ラカンの「四つの言説」からも読み込むことが可能である。

まずラカンの「言説」とは、「社会的結びつき lien social 」という意味であることに注意しよう。フロイトが『集団心理と自我の分析』で示した「愛の結びつき」のことでもある。

われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき Gefühlsbindungen)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) 

フロイト・ラカンにおいては二者関係からすでに集団である。そしてフロイトにおける「愛 Liebe」とはリビドーのことである。

リビドーLibido は愛 Liebe と総称されるすべてのものを含んでいる。⋯⋯⋯

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(同『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

つまり愛の結びつきとは、リビドー的結びつき(エロス的結びつき)のことである。

そして「四つの言説 quatre discours」とは、もともと最晩年(1937年)のフロイトが示した「三つの不可能な仕事」(支配、教育、分析)に、フロイトが示し忘れた最も基本的な「不可能な欲望(ヒステリー)」をつけ加えたものである。

次の「四つの言説」図の上部の二つーー主人の言説と大学人の言説(知の言説)ーーは、男性的言説であり、下部の二つーーヒステリーの言説と分析家の言説ーーは女性的言説である。





構造的には、「主人の言説」と「分析の言説」は裏返しになっている。「大学人(教育・知)の言説」と「ヒステリーの言説」も同じく裏返しである。

大学人の言説は「強迫神経症者の言説」でもある。そして「分析の言説」は「倒錯の言説」と同じ構造であり、上の分析の言説図は倒錯の言説とすることが可能である(参照:「「倒錯の言説」と「分析の言説」の相違」)。

ところでフロイトこう言っている。

強迫神経症言語は、ヒステリー 言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache(『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)

この言い方を援用すれば、倒錯の言説とは主人の言説の方言である。

くり返せば、冒頭の文でジジェクは、「主人の言説」から「分析の言説のヴァリエーションである倒錯の言説」への移行(裏返し)を暗に示している。

人は、男性的社会的結びつきに偏った職務に終始すればそれに耐えきれなくなり、女性的な社会的結びつきを求めるようになるのは、人間に本来ある「能動受動混淆」ーーフロイト表現では「欲動混淆」、「男女混淆」、「サディズムマゾヒズム混淆」、「愛憎コンプレクス」ーーを考えれば当然である(参照)。

そもそも原母子関係において、幼児は男児女児とも常に受動的立場に置かれている。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

多くの人にはこの関係性への「ノスタルジー」があるはずである。

母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter の残滓 Rest は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weibとして存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

そしてフロイトの考えでは、標準的な女性は「母との同一化」(母の取り入れ)がある。これは、母のポジションに自らを置いて、父ーー後年は男ーーから愛されたいということであると同時に、母のように振る舞いたいということでもある(参照)。

quoad matrem(母として)、すなわち《女というもの la femme》は、性関係rapport sexuel において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme »(ラカン、S20、1973)

つまり多くの女性における無意識的な欲望のなかには、「母の役割」をすることがある。この意味は、男に対して能動者として振る舞うことである(「原母=能動者」/「乳幼児=受動者」)。





さてここで、倒錯あるいはマゾヒズムをめぐるラカンあるいはラカン派の捉え方を簡潔に示そう。

倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)

ーーほとんどあらゆる幼児は、母あるいは母親役の人物の欲望の対象としてその人生を始める。すなわち原初において、人はみなマゾヒストである。《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(ラカン、S23, 1977)

そしてマゾヒストの特徴は単に受動的であるだけはないことに注意しよう。

マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。…倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe、When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic、2010)


簡単に「主人の言説」について注釈しておこう。




主人の言説とは、動作主agent が命令者、支配者S1というポジションに置かれている社会的つながりである。

主人S1は、真理のポジションにある自らの欲望$を隠蔽しつつもそれに駆動され、主人S1ー奴隷S2(現在なら部下)、あるいは主人S1ー知S2(専門知)に向けて動作・語りかける。これが左上から右上への矢印(→)を意味する。

全面的な語りかけは不可能である。というのは、言語で真理をすべて言うことは不可能だから。あるいは真理は隠蔽されているのだから。無意識的には半ばその真理を、部下S2が感受する場合もある。これが左下から右上の矢印(⤴)の意味である。

S1→S2の語りかけにより、剰余享楽aが生産される(↓)。だがラカンは主人の言説の剰余享楽を「糞便・肛門的 anal」としているように、支配者が命令することによって生み出されたものは真には役立たずである。





この意味は、彼の本当の欲望である真理とはまったく合致しないということである。したがって右下から左上の矢印の動きが生れ、永続的循環運動を起こす。主人はこの運動に疲弊する。

男性的な言説としての主人の疲弊は、女性的言説に反転して慰安を見出そうとする。これが、ジジェクによる事例では「倒錯の言説」への移行である。







倒錯者aは、自らを他者の道具というマゾヒズム的(受動的)ポジションに置いて、欲望の主体$に語りかける。これが、冒頭の文における「アパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたい」である。真の倒錯者であれば、主婦の欲望に対する知S2(真理のポジション)を知っている。だがそれは語りかけのレベルでは隠蔽されている。

「私どもは奴隷です Slaves are us」団体がその真理としての欲望知S2をもっているか否かはここでは問わない。重要なのは「構造」である。その最も核心の意味は、人はどのポジションに置かれるか、ということである。

他者の道具のポジションに自らを置いた彼らは、「乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽し」みつつ、アパートの主婦を女王様S1として作り上げるようする。欲望の主体$である主婦も、道具という他者に直面するポジションに置かれる。この「構造」が、倒錯の構造と呼ばれるものである。構造が倒錯者を生み、構造が女王様を生むのである。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

⋯⋯⋯⋯

※付記

上に主人の言説における対象aの基本的意味合いのみを示したが、ここで四つの言説における対象aの意味を示しておこう(あくまで最も基本的な意味合いであり、変奏は多様にある)。




「肛門 Anal」 「覗き見 Scopique」 「口唇 Oral」 「声 Vocal」とは、それぞれ糞便、眼差し、乳首(乳房)、声に相当する。

(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960年)

分析の言説における「声」とは究極的には「母の声」である。

われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」(=母なる声)と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)

そして「眼差し/声」は(これも究極的には、だが)「エディプス的父なる超自我の眼差し」/「前エディプス的母なる超自我の声」に相当し、「乳房/糞便」は、「取入/排出」であり、「エロス欲動/タナトス欲動」に相当する。

最初に分離不安ありき