このブログを検索

2019年2月7日木曜日

男と女の愛の相違

ここでの「男と女の愛の相違」とは、「男女の愛の基本メカニズムの相違」、あるいはフロイト理論においての「男女の同一化メカニズムの相違」ということである。

フロイトにおいて「同一化」のあり方は何種類もあるが、ここでの話は「場との同一化」ーー母の場との同一化、父の場との同一化ーーに限る。これについては、いままで何度か記してはきたが、ここでは可能な限り簡潔に記すことに努める。とはいえいつものように引用を多用するのは変わりがない。

……

父との同一化、つまり自らを父の場に置くこと。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』1939年)
母との同一化 Identifizierung mit der Mutter は、母との対象結合 Objektbindung の終末 Ausgang である。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)
放棄された対象あるいは喪われた対象 aufgegebenen oder verlorenen Objektの かわりに、その対象を自我に取り入れること Introjektionは、けっして珍しいことではない。このような過程は小児について直接に観察される。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)

上にあるように「場との同一化」とは、同一化対象を「取り入れる」ことであるとともに、その対象を「追い払う」(押しのける)機能もある。

母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

場との同一化における「追い払い」は、初期漱石に簡潔な文がある。

二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

一般の女児において起こる「母の場との同一化」は、原母子関係において男児女児ともに必ずある母とのエロス的結びつきから「逃れる」機能をもつのである。後年の生において、女性が男性に比べ、外面上では、マザーコンプレクスを免れているように見える第一の理由は、この「母の場との同一化」のせいである。

「原母子関係には男児女児ともに必ずある母とのエロス的結びつき」とは次の意味である。

男性の場合、栄養の供給や身体の世話などの影響によって、母が最初の愛の対象 ersten Liebesobjekt となり、これは、母に本質的に似ているものとか、彼女に由来するものなどによって置き換えられるようになるまでは、この状態がつづく。

女性の場合にも、母は最初の対象 erste Objekt であるにちがいない。対象選択 Objektwahl の根本条件は、すべての小児にとって同一なのである。しかし、発達の終りごろには、男性である父が愛の対象となるべきであって、というのは、女性の性の変換には、その対象の性の変換が対応しなくてはならないのである。(フロイト『女性の性愛』1931年)


繰り返せば、女児における母との同一化は《母から逃れ去り母の場に父を置こうとする》(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)機能を持つ。つまり「母の愛」を「父の愛」に代替する。ここでの「の」とは、「からの/への」という両方の意味をもつ。

だがそれだけではなく、男女両性とともにあるには違いない「自己愛」を、女性においては男性に比べてよりいっそう多く生みだす傾向をもつ。

女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)

《人形は彼女自身である》とは、ナルシシズムのことである。したがってフロイトは次のように言うことになる。

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)

この標準的女性における同一化機制は、男性の同性愛者における母との同一化と相同的である。

子供は自分自身を母の場に置きindem er sich selbst an deren Stelle setzt、母と同一化 Mutter identifiziert し、彼自身をモデルVorbild にして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによって、彼は母への愛を抑圧する verdrängt die Liebe zur Mutter。このようにして彼は同性愛者になる。

いや実際には、彼はふたたび自体性愛 Autoerotismus に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 Ersatzpersonenであり更新 Erneuerungen に他ならないのだから。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)
少年は母を捨てないで verläßt nicht 自分を母と同一化 identifiziertして、彼女の中に自分を転化してwandelt 、いまや彼の自我の代理となるような対象を求め、その対象を彼が母から経験したように愛し慈しむ lieben und pflegen のである。…

この同一化で目立つことは、その豊かさAusgiebigkeitである。自我を、きわめて重要な特徴höchst wichtigen Stückをもったもの、つまり性的性質 Sexualcharakter をもったものに、これまでの対象(母)を手本Vorbildにしてつくりかえる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


このように、フロイトにおいては、標準的な女性と男性の同性愛者は、同じ「母との同一化」仲間であり、同じ「ナルシシスト」なのである。

他方、ゲイでない標準的-神経症的男性の場合の機制はもっと単純である。

単純な場合、男児では次のように形成されてゆく。非常に幼い時期に、母にたいする対象備給 Mutter eine Objektbesetzung がはじまり、対象備給は哺乳を出発点とし、依存型 Anlehnungstypus の対象選択の原型を示す一方、男児は同一化 Identifizierung によって父をわがものとする。この二つの関係はしばらく並存するが、のちに母への性的願望 sexuellen Wünsche がつよくなって、父がこの願望の妨害者であることをみとめるにおよんで、エディプス・コンプレクスを生ずる。ここで父との同一化 Vateridentifizierung は、敵意の調子をおびるようになる、母にたいする父の位置を占めるために、父を除外したいという願望にかわる。そののち、父との関係はアンビヴァレントになる。最初から同一化の中にふくまれるアンビヴァレントは顕著になったようにみえる。この父にたいするアンビヴァレントな態度と母を単なる愛情の対象として得ようとする努力が、男児のもつ単純で積極的なエディプス・コンプレクスの内容になるのである。

エディプス・コンプレクスが崩壊するときには、母の対象備給 Objektbesetzung der Mutter が放棄(止揚 aufgegeben)されなければならない。そしてそうなるためには二通りの道がありうる。すなわち、母との同一化 Identifizierung mit der Mutter か父との同一化の強化 Verstärkung der Vateridentifizierung のいずれかである。後者の結末を、われわれはふつう正常なものとみなしている。これは、母にたいする愛情の関係をある程度までたもつことをゆるす。(フロイト『自我とエス』1923年)

ようするに幼児期にある母への愛を女性への愛に移行させるだけである。

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)


もっとも男性において、父との同一化が起こらず、しかもゲイでもない「倒錯者・精神病者」は、他の女性に移行できず、母への固着の生を終生送る傾向があったり、あるいは移行しつつも母への固着がひどく根強い傾向をもつ。

幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutterの残余 Rest は、しばしば母への過剰な依存形式 übergrosse Abhängigkeit として居残る。そしてこれは女への隷属Hörigkeit gegen das Weibとして存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ラカンで補えば、母としての女の支配が終生強く居残るのが、前エディプス的主体、つまり倒錯者・精神病者である(参照)。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)




⋯⋯⋯⋯

以上の記述から、標準的な男性と女性の愛の形態の発達段階的移行を次のように図式化できる。




すなわち、上段のトーラス円図については、原母子関係には、男女両児とも、母へのエロス的結びつきがある。

下段の二つのトーラス円図については、次の通り。

・男児は母から女への移行がある。
・女児は「母の場との同一化」をすることによって、「自分を愛する」(ナルシシズム)、そして「父を愛する・父から愛される」。後年の生で、父は男へ移行する。

ーートーラス円図の重なり目にあるラカンのマテーム(a/-φ)については、ここでは煩雑になるので注釈しない。「子宮回帰運動」を参照されたし。


⋯⋯⋯⋯

※付記

ここでは原ナルシシズムと二次ナルシシズムの議論も割愛した。それについては、「人はみなナルシシストである」を見よ。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)

原ナルシシズムの考え方を省いて、最も簡略に自我レベルの話に限ってしまえば、標準的な男の愛は、母への愛とその変奏としての女への愛であり、標準的な女の愛は、自己愛(二次ナルシシズム)である。女たちが男を愛しているようにみえても、男に愛される自分を愛していることにほぼ帰結する。《自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。》(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

ーーとはいえこれは、あくまでフロイトの考え方においては、と強調しておかねばならない。


以下、ラカン派における男女関係の思考のエキスのみを付記しておこう。

性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体とその「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
「他の性 Autre sexe」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexe」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
「大他者 L'Autre」とは、私のここでの用語遣いでは、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。 (ラカン、S20, 16 Janvier 1973)

したがって次のように図示できる。




だが他の性は女の性であり、女というものは存在しない。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、 Des semblants dans la relation entre les sexes,1992)

女というものの場は存在するのである。

「女というものは存在しない」の最も基本的な意味は次のことである。

たんに「女というものはない il n'y a pas La femme」のではない。私が既に繰り返していることだが、女というもの自体は全てではない(非全体 pas toute)と定義される。

…女というものが非全体だというのは、女たちが一般化されえないということである。一般化、すなわちファルス中心主義的一般化 généralisation phallocentrique である。(ラカン、ジュネーヴ会議 Conférence à Genève sur le symptôme、 1975)

《ファルス中心主義的一般化》とあるが、これは、ファルス秩序(言語秩序)によっては女というものは捉えられないということである。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

したがって言語界には、女というものは存在しない。 存在しないとはいえ、空集合としての女というものの場処はある。だから人はそこに何ものかを代入して夢見る。これが症状である。

ラカンの教えにおいて、症状概念は進化することを止めない。そして最後のラカンは断定する、症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptômeと。この意味は、症状は単に障害であるどころか、また解決法 aussi une solution であるということである。

逆説ではなく、われわれは言うことができる。人はみな、自らの症状のおかげで適応すると。何に適応するのか? 言説(社会的結びつき)の規範に適応するのではない。言説については、人の症状は障害に似ている。つまり症状は規範言説による統制に異議を唱えるものである。

しかし症状は、無意識から生じる構造に適応する。この無意識は分析自体において光が照射されるものだ。そしてラカンはこれを無意識の特性としての現実界と呼んだ。この現実界的無意識は「性関係はない Y'a pas de rapport sexuel」と定式化される。この意味は、言語の構造において、性はどんな徴を以ても書かれていない le sexe ne s'inscrit sous aucun signe ということである。徴、つまり「一つになって他の諸享楽と結びつくconjoindre l'une et l'autre jouissances」ことを可能にする徴である。言語は、フロイトが夢みた融合としてのエロスには適していないのである le langage est impropre à l'Éros de la fusion dont rêvait Freud.

しかし、他の性の刻印の不在のなかにà défaut d'inscrire l'Autre sexe、症状がある il y a le symptôme。この症状が無意識によって発明されるのである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


ほかにも、上に掲げたトーラス円図のヴァリエーションとして、ジャック=アラン・ミレールは2011年に次の図を掲げている。




「大他者」の箇所に「享楽」が入っているが、つまりは大他者の享楽である。

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(Lacan,S23, 16 Décembre 1975)

このミレール図は、基本的には、先ほどジジェク文脈で掲げた「他の性」の図と相同的である。



上に見たように「他の性」=「女の性」である。

「他の性 Autre sexe」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexe」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)

代入すれば次の通り。




これは、巷間でときに語られる「私のなかの女」を夢見る女性たちの図式でもある。

男のほうは言うまでもない。作家たちのよって既にくり返し語られて来た。

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


そして勿論、原大他者 l'Autre primitif は母である(参照:受動性と能動性(女性性と男性性))。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。⋯⋯それは、「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ラカン用語において、穴とはトラウマ(=言語秩序に同化されえないもの)のことであり、反復強迫をもたらす。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Vie de Lacan、2010 )