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2019年1月22日火曜日

知的絞首刑

だいたい「欲望」ってのはイミフの言葉だからな。諸派やそれを語る個人の心的構造によってまったく異なった意味で使われている。

フロイト・ラカン派では主にーーこれまた「まともな」フロイト・ラカン派のみだがーー、エディプス期以後が「欲望の主体」で、エディプス期以前が「欲動の主体」だよ(参照)。(より厳密にいえば後者は「欲動固着の主体」→[参照])

ここでフロイト・ラカン派ではない中井久夫を引用しておくけど。
精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収ーー「言語の深部構造」)

で、「「欲望の対象」と「欲望の原因」」について質問もらってんだが、以下、ボクの偏ったアタマではこう考えているということをテキトウに書くよ。

ようするに「欲望の対象」とは、エディプス期以後の主体の得意分野で、「欲望の原因」とは、エディプス期以前の主体が得意分野だな、簡単にいえばだが。前者の「欲望の対象」の底にはかならず「欲望の原因」があることに注意しなくちゃいけないけど。





そもそも神経症的主体と倒錯的主体が同じ「欲望」を語っていても、まったく別のこと話してる場合が多いよ。たとえば日本言論界の若手だったらコクブンとチバの欲望はーーボクはああいったボク珍たちの言説はもはやわずかに垣間見るだけになっているがーー根のところでは、まったく違う筈だ。

これがまずは「「欲望の対象」と「欲望の原因」」で引用したミレールの言ってることだ。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)

もう一つあったな。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


さきほど掲げた「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図は、ミレール2005の図を、そのままその下に置ける(参照:女性の享楽は享楽自体のこと)、ーー厳密な区分は無視すれば、ということだが。たとえばどっちつかずの境界例というものもあるわけで。



もう一度、先ほどの図貼り付けておくよ。わかりやすいようにね。




ーーいやあ、ボクの頭ではピッタンコだな。

で、父なる超自我と母なる超自我とは次の内容。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

この「母なる超自我/父なる超自我」とは、「母なるシニフィアン/父の機能」に置き換えてもいい。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

で、誰でもそう読めるだろうように、これで「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の意味がより鮮明化された筈。

ようするにオットサン(あるいは言語の法)に支配されているか、オッカサン(あるいはリビドー固着)に支配されているかどっちかということだ。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


で、欲望の対象とは、欲望の原因のたんなる覆いだよ、それは父なる超自我が母なる超自我のたんなる覆いに過ぎないように。

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003ーー女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

だから前エディプス的主体が、エディプス以後の主体をバカにするのは、ある程度はーー強調しておくが或る程度だーーやむえないことだな。


⋯⋯⋯⋯

ボクに言わせれば、最も大切なのは「エディプス期以後の主体」が「エディプス期以前の主体」に教訓垂れたら絶対ダメだということを知ることだな。ツイッターなんかたまに覗くと、神経症主体がそればっかりやっているように見えることがあるけどさ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の大他者である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が通常、失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押しつけに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)

※もういくらか詳しくは、 「倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違」を見よ。


大他者に貪り食われる不安とは、究極的には原大他者、つまり母なる大他者に呑み込まれる不安ということ。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

このあたりについての真の根は、フロイトや後期ラカンもふくめてより広汎な文献を「子宮回帰運動」で示したばかりだから、そっちを参照。

ま、ボクはモロ倒錯者だからな、たとえばあきらかに神経症的社会学者たちやらツイフェミなど、あれら、もっともらしいこといってる神経症的インテリみると、攻撃性発露か、すくなくともハイネ気分になるんだな。血圧に悪いね。

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

Ich habe die friedlichste Gesinnung. Meine Wünsche sind: eine bescheidene Hütte, ein Strohdach, aber ein gutes Bett, gutes Essen, Milch und Butter, sehr frisch, vor dem Fenster Blumen, vor der Tür einige schöne Baume, und wenn der liebe Gott mich ganz glücklich machen will, läßt er mich die Freude erleben, daß an diesen Bäumen etwa sechs bis sieben meiner Feinde aufgehängt werden. Mit gerührtem Herzen werde ich ihnen vor ihrem Tode alle Unbill verzeihen, die sie mir im Leben zugefügt — ja, man muß seinen Feinden verzeihen, aber nicht früher, als bis sie gehenkt werden.« (Heine, Gedanken und Einfälle.)



わかるかな、これで。ボクはどっちかというと若いお嬢さんらしき方だけには一応親切なんだけどさ。でも写真付き質問に限ることにしようかな、今後は。ボクの言いたいこと、わかる? めんどいんだよ、もう。

もっともこの程度だったらいいさ。だいたい最近のボクのブログは、文章のある塊を画像を貼り付けるように貼り付けるだけにほとんどなっているからな。連鎖反応式に。ここで新しいのは「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図だけだな。このスタイルそろそろ変えないとな、退屈してきたよ。

で、アタシほんとはオンナだって、あんたシッテル?




実際は、ヒトのなかにはいろんな主体がいるはずさ、上に記したことなんかウソッパチだよ、ほんとは。