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2019年1月16日水曜日

「欲望の対象」と「欲望の原因」

フェティシストを自認する蚊居肢子だが、フェティッシュとは欲望の対象ではない。欲望の原因である。

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因 cause du désir」として現れる。…

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストはみな知っている。フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」だということを。(ラカン、S10、16 janvier 1963)

だれかが欲望を語っているとき、この人は「欲望の対象 objet du désir」を語っているのか、「欲望の原因 cause du désir」を語っているのかを見極めることが、ラカン派の議論においては決定的である。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)





ミレールのいっているまがいとか囮とかは、ラカンにおいては次のような形であらわれている。

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre l962)


ミレールの言っているアガルマは、次の文でジジェクがいうアウラに置き換えて読むとより明瞭になることだろう。

ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

そしてラカン自身の言葉で、 「メドゥーサの眼差し」を補おう。

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


さて今、上に引用したラカンやミレールの言っていることは、ドゥルーズがプルーストを読むことによって導き出した、次の簡潔な表現のヴァリエーションとして捉えうる。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

すなわち、「欲望する理由は、欲望の対象にはけっしてない」、神経症者たちだけである、欲望する理由が欲望の対象にあると幻想しているのは。

そもそもある時期以降のラカンにとっては、欲望とは幻想のことである。

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)
ラカンにおいては「欲望のデフレ une déflation du désir」がある。…
承認 reconnaissance から原因 cause へと移行したとき、ラカンはまた精神分析適用の要点を、欲望から享楽へと移行した。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller )


ジャック=アラン・ミレールはラカンにおける欲望概念の変遷を把握するのはとても困難だと2004年の時点で言っているから、あまり確とした断言はしないでおくが、「欲望の対象」に宛てられる愛は見せかけ(仮象)である、と1973年のラカンは言っている。

愛自体は見せかけに宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)

他方、欲望の原因にかかわる倒錯者(さらに、おそらく精神病者も含めた前エディプス的主体)は、享楽の審級にある。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、「享楽の対象 objet de jouissance」、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

ミレール がいう「愛の対象は i(a)」、あるいはラカンがいう「愛の対象としての見せかけは欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆いの基礎の上にある」とは、ナルシシズム(二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus)にかかわる。

想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)

ミレールは神経症者と倒錯者について、こうも言っている。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


とはいえ、欲望の対象と欲望の原因の相違については、もしあまり難しいことを言わないでおくなら、次のジジェクの説明で(基本的には、そして一般の人には)よいだろう、とわたくしは考えている。

幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象)とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望するひとのこと。逆に「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象)」とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の対象-原因 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

(対象aとしての)「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、私訳)

ーー最低限、まずこれをおさえるべきである。


もしいくらかもっと難しいことを言うなら、上に「欲望の原因にかかわる倒錯者(さらに、精神病者も含めた前エディプス的主体)は、享楽の審級にある」と記したが、ここでの享楽とは何かという問いを提出する必要がある。

ここでいくらか寄り道して、ジジェクをもう一つ引こう。

①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

①②③は、いままでラカン派文脈、あるいは標準的な共同体心理学レベルでも、さんざん語られてきた「欲望」である。

①は、他人が欲しがっている或いは他人が所有しているから、私も欲しくなる。「隣の芝は青い」、「一盗二婢三妾四妓五妻」⋯⋯。

(ある種の男にとっては)誰にも属していない女は黙殺されたり、拒絶されさえする。他の男と関係がありさえすれば、即座に情熱の対象となる。(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について 』1910)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)

②は、典型的には承認欲望のこと。《承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir》(ラカン、E151)。

③は、欲望は言語作用の効果だということ。その意味で①②は、③に包含される。

欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)

ラカンは上のように言っているが、(①②③の文脈においては)欲望は言語の法に従属していると言ってしまってよい(参照:大他者なき大他者)。


だが④の《私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている》とは何だろうか?

前期ラカンはこう言っている。

他のモノはフロイトのモノ das Ding である das Dingautre chose est das Ding, (ラカン、S7、16 Décembre 1959)
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

そしてこのモノ=母は、喪われた対象だと、1970年には言うことになる。

(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

ーーより詳しくは「モノと対象a」にてラカン発言を中心にした資料がある。

ここでは女流ラカン派第一人者コレット・ソレールにて補うのみにする。

・「欲望は大他者の欲望」は、欲求 besoin との相違において、欲望 désir は、言語作用の効果だということを示す。…この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件である。…しかし、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら 「欲望は大他者の欲望ではない le désir n'est pas désir de l'Autre」。

・欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)

「原初に喪失した対象」あるいは「欠如しているものとしての対象a」とは去勢=母からの分離として捉えうる。この分離による不安(分離不安)とともに融合不安、あるいはメドゥーサ不安があるのだが、それについては、話が複雑になり過ぎるので(?)、ここでの議論から外す[参照]。ラカンやらジジェクやらなんてのは(上に引用したように)この話ばっかりが好きでじつにコマル。じつはボクはその後塵を拝したくないのである。パックリやられるのはヨメサンだけで充分すぎる・・・

母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war は、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration である(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) 
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

ゆえにーーいいだろうか「ゆえに」で? いささか人には飛躍気味に感じられるかもしれないが、ボクの頭の構造では「ゆえに」であるーー《私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing (=母)の深淵によって支えられている》のである。

対象a とその機能は、欲望の中心的欠如 manque central du désir を表す。私は常に一義的な仕方で、この対象a を(-φ)にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


したがってーーまたいくらか飛躍してみえるかもしれないが、長くなっちまったからな、たまには短く記したいんだが、飛躍がオキライな方は「自体性愛と去勢の原像」を参照されたしーー、欲望の原因の根には、オッカサマとの分離不安があるのである。「オッカサマと離れてさびしい」である。

こうして次の結論が生まれる。すなわち欲望とは、不幸にも出産によって分離してしまったオッカサマと再融合したいという原エロス欲動の代替物である。換喩や昇華といってもよろしい。人はみな、なんらかの欲望をするとき、それは原マザコン欲動の換喩あるいは昇華であることを熟知すべきである・・・これは当然、男女両性にかかわる。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

ーーーというわけでラカンマテームを使用すれば、母とは、LȺ Mére なのである。つまり、オッカサマはなぜか穴Ⱥ があいている。それがそもそもの人の不幸の始まりである。近親相姦したってこの穴埋めができる筈はない・・・

とはいえ男はオッカサマなのである。女は母との同一化をしている(母を取り入れている)から、オッカサマ拘束から逃れているだけである。

母との同一化は、母との結びつき(母親拘束)の代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

他方、安吾や小林秀雄のようになるのが、正常な男というものである。


(安吾曰く)「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』ーーオッカサマという「ふるさと」
母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。(小林秀雄「感想」)

この欲望の原因の根を「何言ってんの、バカらしい!」と言い放つのが、エディプス的幻想の迷宮に耽溺する神経症者たちである。

晩年のラカンは彼らのことを父の版の倒錯者と呼んだ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール、Lacan, L'inconscient Réinventé、2009)

コレット・ソレールは「エディプス的男性の標準的解決法」と言っているが、この父の版の倒錯者は男に限らない。日本でもしばしばみられるように、たとえば「家父長制と闘う」と勇ましく叫んでおきながら、どの人間にもある筈の「欲望の原因」の根としての「母からの分離不安」に退行してしまう男たちを嘲けり笑うフェミニストのおねえさんたちは、おおむね「父の版の倒錯者」、つまりエディプス版倒錯者である。

というわけで、いつもの結論に達した。すなわちオッカサマがエライ! オンナがエライ! ・・・だいたいオレはこればっかり記しているような気がしてきたな。

だがどうしてボクは女なんかにはけっしてなりたくない、なんて思ってんだろ? 蚊居肢子はいつも同じことばっかり書いていないで、この謎を追求すべきなのだが・・・たぶん女になっちまったら女を愛することができなくなるせいではなかろうか?

ここで、神経症的主体には、つまり欲望の迷宮に彷徨っているのみの方々には、おそらくまったく理解できないだろう、ラカン派の観点をも引用しておくべきだろうか?

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

・・・これがわかっていない方々を蚊居肢子はマヌケと呼んでいるが、ボクはそんなシツレイなことはけっしていわない。蚊居肢子とは蚊居肢ブログの架空の登場人物であることを熟知されたし。


ところで坂本龍一のオッカサマの写真に出会ったんだが、実に美しいね、ボクのオッカサマよりはちょっとだけ劣るだけだ。





というか、1950年代の女ってのは、だいたいイケるよ。今の日本の女たちには、若くってもこの野性的なにおいのするピチピチ度があまり感じられないんだな。未来があったんだよ、あの時代には。10年後20年後は今よりずっとよくなるというね。きみたちにはあるかい、それが?

⋯⋯⋯⋯

いつもと調子がちがうがわけありなんだ。ヨメサンと喧嘩して高原の町にきててね、ちょっとまえ堀辰雄を読んだせいもあるけど。で、寝れないんだな。ヨメサン、まだ怒ってるみたいだしな。謝ったんだがな。うちのヨメサン、40才すぎてもひどく野性的だからとっても怖くって。