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2019年5月25日土曜日

恐ろしい喜劇

あなたは自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしている。(ニーチェ『反時代的考察』)
あなたは自分が何を望んでいるか実際に知っているのか? 

――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安があなたを苦しめたことはないのか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 

自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいはあなたがはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと切望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する渇望 schämenswerthen Gelüste! 

あなたはまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、あなたが、ほかならぬあなたがそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、全き秘密の前提条件がいつもあるのだ! 

あるいはあなたは、あなたが冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! 

あたかもあなたは、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーーあなたの愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 

あなたの肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。あなたの病熱は、それらを怪物にする! あなたの朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 

あなたはあらゆる認識の洞窟の中で、あなた自身の亡霊 Gespenstをーーあなたの視野からその中に覆い隠蔽された繭 Gespinnstとしての亡霊をーー再発見することを恐れていないのか。あなたがそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇 schauerliche Komödieではないのか? ――(ニーチェ『曙光』539番)
人は見ることを学ばなければならない、人は考えることを学ばなければならない、人は語ることと書くことを学ばなければならない。これら三者のすべてのおける目標は一つの高貴な文化である。

見ることを学ぶとはーー、眼に、落ち着きの、忍耐の、対象をしてわが身に近づかしめることの習慣をつけることであり、判断を保留し、個々の場合をあらゆる側面から検討して包括することを学ぶことである。これが精神性への第一の予備訓練である。すなわち、刺激にただちに反応することはなく、阻み、きまりをつける本能を手に入れることである。私が解するような見ることを学ぶとは、ほとんど、非哲学的な言い方で強い意志と名づけられているものにほかならない。その本質的な点は、まさしく、「意欲」しないこと、決断を中止しうることである。すべての非精神性は、すべての凡俗性は、刺激に抵抗することの無能力にもとづく、――だから人は反応せざるをえず、人はあらゆる衝動 Impulse に従うのである。(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」第6節『偶像の黄昏』所収)


と引用して何が言いたいわけでもない。誰もが見ることなどなかなか学べないのである。とくに自分を見つめることは最も難しい。《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている》(エリオット「四つの四重奏」)。ただし他人の「メタ私」はときに自分の「メタ私」よりもよく見えることがあるのは確かだ。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』)
誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)
他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」)