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2019年5月28日火曜日

固着によるタナトス

以前、次の図を掲げたが、それについて質問をもらっている。



この二つの死の本能の、右側は次の文に依拠する。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望する機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)


左側の「死の本能」は以下に示すが、一方は強制された運動、他方は自由流体としての運動であり、わたくしには明らかな矛盾があるという風にみえるということである。そして現在に至るまで、この二つの死の本能について突っ込んで問うているドゥルーズ研究者をわたくしは知らないということである。

⋯⋯⋯⋯

1960年代後半のドゥルーズ は「強制された運動 le mouvement forcé」あるいは「強制された運動の機械 les machines à movement forcé」という表現を扇の要にして、「タナトス Thanatos」「永遠回帰 l'éternité du retour」「無意志的回想 le souvenir involontaire」をほぼ等置している。



以下、まず三つの文を掲げる。


■強制された運動=タナトス
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


■無意志的記憶= 時のなかに永遠回帰を導く死の本能
エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)


■強制された運動の機械=タナトス 
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械 trois sortes de machinesを動かしている。

・部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)
・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真理を生産する。なぜなら、真理は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

・失われた時 le temps perduにおいては、部分対象 objets partiels の断片化による。
・見出された時 le temps retrouvéにおいては、共鳴 résonance による。
・別の仕方における失われた時 le temps perdu d'une autre façon においては、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この失われたもの cette perte は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

ーー今かかげた三文が、なによりもまず冒頭図の示す内実である。


ドゥルーズはプルーストの《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》(『見出された時』)を何度もくり返している。ここでは二つだけ引く。


■潜在的なもの
《現勢的ではないリアルなもの、抽象的ではないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――このイデア的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence。本質は、無意志的回想の中に現実化または具現化される L'essence se réalise ou s'incarne dans le souvenir involontaire。ここでも、芸術の場合と同じく、包括と展開 l'enveloppement, l'enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的回想le souvenir involontaireは、本質の持つふたつの力を保持している。すなわち、過去の時間のなかの差異 la différence dans l'ancien momentと、現勢性のなかの反復 la répétition dans l'actuel。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第5章、第2版 1970年)
潜在的なものは、実在的なものには対立せず、ただアクチュアルなものに対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全な実在性を保持しているのである。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、「実在的ではあるがアクチュアルではなく、観念的ではあるが抽象的ではないréels sans être actuels, idéaux sans être abstraits」ということ、そして、象徴的ではあるが虚構ではないということ。

Le virtuel ne s'opposent pas au réel, mais suelement à l'actuel. Le virtuel possède une pleine réalité, en tant que virtuel. Du virtuel, il faut dire exactement ce que Proust disait des états de résonance : « réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits » ; et symboliques sans être fictifs .(ドゥルーズ『差異と反復(下)』財津理訳,2007年,p.111)

上のドゥルーズ文に現れる「潜在的なもの le virtuel 」と相同的な表現として、「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]」がある。ドゥルーズは、潜在的対象を次のように表現した。

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial
(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)

だがこれでは何のことやら掴みがたい。重要なのは次の文である。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x])」に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章)

ーーここで《潜在的対象》と《「原」抑圧 refoulement dit « primaire »》をほぼ同じ機能と扱っていることに注意しよう。

『差異と反復』の序章では、原抑圧と欲動の反復を関連づけて語っている。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)


フロイト概念「原抑圧 Urverdrängung」とは、実質上、「固着 Fixerung 」のことである(参照:原抑圧・固着文献)。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


ドゥルーズ自身、次のような形で「固着」に触れている。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」という考え方 idée d'un « automatisme » は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)

ーーこのドゥルーズの文に現れる「トラウマ」「固着」「退行」「自動反復」は、なによりもまずフロイトの次の三文とともに読むべきである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行 Regression の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残る zurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


なぜこの固着が反復強迫(死の欲動)を生むのか?

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


固着とは 《「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである》(ポール・バーハウ、BEYOND GENDER、2001)。だが人はそれを象徴化の試みをする。それは不可能な試みである。したがって永遠的な反復強迫が起こる。

もともと「身体の出来事」の一部は心的装置に翻訳されはしない。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)

ようするに固着による反復とは、外傷神経症の反復強迫とメカニズムとしては相同的である。

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

ーー晩年のラカンはこの固着をサントーム(原症状)と呼んだ(参照: フロイト・ラカン「固着」語彙群)。サントームとは、フロイト用語ではトラウマ神経症であり、かつまたその反復強迫である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)

ここでの症状は原症状の意味であり、サントームのことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…身体の出来事は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになった。Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

そしてこのサントームが永遠回帰的反復強迫をもたらす。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ラカンにとって、現実界はトラウマ界であり、レミニサンス(無意志的反復)するものである。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


以上、冒頭に掲げた図を「固着」用語で補って再掲しておこう。




上に見てきたように「固着」は「潜在的なもの le virtuel 」あるいは「潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]」に代替してもよい。

ラカンはこの固着を、骨象a [osbjet a]ともした。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

以上。