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2019年5月29日水曜日

私はおまえを愛している

読むことを技術として稽古するためには、何よりもまず、今日ではこれが一番忘れられているーーそしてそれだから私の著作が「読みうる」ようになるまではまだ年月を要するーーひとつの事だ必要だ。――そのためには、読者は殆んど牛にならなくてはならない。ともかく「近代人」であっては困るのだ。そのひとつの事というのはーー反芻することだ……(ニーチェ『道徳の系譜』序 第8節)

なぜ人はニーチェを語るばかりで、ニーチェを読まないのだろうか? いやわたくしはよく知っている。それがインテリというものだということを。とくにニーチェに比べれば三文思想家にすぎないハイデガーやらドゥルーズやらあたりを掠め読んで、「ボク珍」はわかってるんだと思い込んでいるあのカボチャ頭の連中、わたくしは彼らを「気合い系」と呼ぶのを好むがーー、あの連中はとてつもなく厚顔無恥である。

もっともハイデガー の《エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen 》やら《エク・スターシスek-stasis》やら、つまりつまり《杣径 Holzwege》の先の悦楽、「忘我、恍惚、驚愕、狂気」「自身の外へ出る」ぐらいは、ニーチェの永遠回帰にいくらか近づいた概念として許容することに吝かではない。


たとえば人はなぜこれらのニーチェを反芻しないのだろう?

ああ、どうして私は永遠を求める激しい渇望に燃えずにいられよう? 指輪のなかの指輪である婚姻の指輪を、ーーあの回帰の輪を求める激しい渇望に!

Oh wie sollte ich nicht nach der Ewigkeit brünstig sein und nach dem hochzeitlichen Ring der Ringe, - dem Ring de Wiederkunft!

私はまだ自分の子供を産ませたいと思う女に出会ったことがないーーだが、ただ一人私が愛し、その子供が欲しい女がここにいる。おお、永遠よ!私はおまえを愛している。

Nie noch fand ich das Weib, von dem ich Kinder mochte, sei denn dieses Weib, das ich lieb: denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!

私はおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ!Denn ich liebe dich, oh Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」第6節)
おまえ、葡萄の木よ。なぜおまえはわたしを讃えるのか。わたしはおまえを切ったのに。わたしは残酷だ、おまえは血を噴いているーー。おまえがわたしの酔いしれた残酷さを褒めるのは、どういうつもりだ。

Du Weinstock! Was preisest du mich? Ich schnitt dich doch! Ich bin grausam, du blutest -: was will dein Lob meiner trunkenen Grausamkeit?

完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!」そうおまえは語る。だから葡萄を摘む鋏はしあわせだ。それに反して、成熟に達しないものはみな、生きようとする。いたましいことだ。

"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" so redest du. Gesegnet, gesegnet sei das Winzermesser! Aber alles Unreife will leben: wehe!

苦痛は語る、「過ぎ行け、去れ、おまえ、苦痛よ」と。しかし、苦悩するいっさいのものは、生きようとずる。成熟して、悦楽を知り、あこがれるために。

Weh spricht: "Vergeh! Weg, du Wehe!" Aber Alles, was leidet, will leben, dass es reif werde und lustig und sehnsüchtig,

ーーすなわち、より遠いもの、より高いもの、より明るいものをあこがれるために。「わたしは相続者を欲する」苦悩するすべてのものは、そう語る。「わたしは子どもたちを欲する、わたしが欲するのはわたし自身ではない」と。ーー

- sehnsüchtig nach Fernerem, Höherem, Hellerem. "Ich will Erben, so spricht Alles, was leidet, ich will Kinder, ich will nicht _mich_," -

しかし、悦楽は相続者を欲しない、子どもたちを欲しない、ーー悦楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同ーだ。

Lust aber will nicht Erben, nicht Kinder, - Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.

苦痛は言う。「心臓よ、裂けよ、血を噴け。足よ、さすらえ。翼よ、飛べ。痛みよ、高みへ、上へ」と。おお、わたしの古いなじみの心臓よ、それもいい、そうするがいい。痛みはいうのだ、「去れよ」と。

Weh spricht: "Brich, blute, Herz! Wandle, Bein! Flügel, flieg! Hinan! Hinauf! Schmerz!" Wohlan! Wohlauf! Oh mein altes Herz: Weh spricht: "vergeh!" (第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第9節)

ここにはすでに永遠回帰とは「永遠の生の回帰」であり、永遠の生とは死である、と歌われていないだろうか? 

おわかりにならない方のために、詩がお好きでない方のために、次の散文をも示しておこう。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)


古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエーZoë」(永遠の生)と「ビオス Bios」(個人の生)があった(人は。アガンベンのはしたないゾーエー解釈「剥き出しの生」は笑って無視せねばならない[参照])。

肝腎なのはニーチェの正嫡ケレーニイである。なかんずく『ディオニューソス.破壊されざる生の根』のケレーニイである。

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)
ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

このようにニーチェを剽窃することはこよなく重要である。

おまえたちは、かつて悦楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第10節)


フロイトもケレーニイと同じようにニーチェを反芻したのである。《苦痛のなかの快 Schmerzlustは、マゾヒズムの根である。》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。―― 

_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)

そしてこの「悦楽 Lust」=「苦痛のなかの快 Schmerzlust」こそ、ラカンの「享楽 jouissance」である。ラカンはニーチェを隔世遺伝したのである。

不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)

ーーここには完全に酔歌のニーチェがいる。

そしてフロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust=マゾヒズムの根》を受けて、ラカンはこう言う。

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)


ああ、おバカな哲学者たちよ! きみたちにはニーチェを読む力はまったくない。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)


永遠の生とは個人の生の側からみれば死である。《死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。》(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だ。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

享楽は原初に喪失したのである。その享楽の喪失を取り戻すには死しかない。

永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb(欲動)という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

くりかえせば永遠回帰とは永遠の生回帰であり、つまりは死の回帰である。これをラカンは享楽回帰と呼んだのである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンの享楽とはフロイトのリビドーのことである。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

究極のリビドー とは受生において喪われた永遠の生である。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

この「永遠の生」としてのリビドーが究極のエロスであり享楽である。

学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものである。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)

Libido= Lust。すなわちニーチェの酔歌はこう読むことができる。

享楽=リビドー Lustが欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.

…すべての享楽=リビドーは永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」1885年)

これこそ唯一の愛である。《私はおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ!Denn ich liebe dich, oh Ewigkeit! 》(「七つの封印 Die sieben Siegel 」)


すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

リビドー、すなわち欲動である。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

究極の以前の状態こそ「永遠の生=死」である。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

もう一度、「酔歌」から再掲しよう、《完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!

有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

ーーこれこそニーチェの真の後継者というものである。


⋯⋯⋯⋯


ラカンが「享楽は去勢だ」というのは、何よりもまず、享楽は生きる存在から常に既に喪われているからである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

上に引用したセミネール11にある《生きる存在から控除された soustrait à l'être vivant》リビドー とは、去勢された享楽を意味する。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, janvier 2009))

去勢されていない享楽、それを永遠の生=死と呼ぶ。





おまえたちは永遠回帰について何も知らない。

私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

フロイトの死の欲動とは、永遠の生=死=究極のエロスのまわりの漂流、さまよいである。《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、AE534、1973)


そしてこれこそ原マゾヒズムである。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


⋯⋯⋯⋯


ニーチェを読むためには「魂の高さ Höhe der Seele」が必要である。21世紀の現在、もはやそんなものはどこにもない。フロイトやラカン、そしてケレーニイの助けのもとに読もうとする連中ももはやどこにもいない。

この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。

人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷路へと予定されている運命。七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわくる新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・

いざよし! このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ Höhe der Seeleによって、凌駕していなければならない、――軽蔑 Verachtungによって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言)