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2019年6月30日日曜日

治癒不能の「母の裸」

フロイトは汽車恐怖症(旅行不安 Reiseangst)に終生悩まされたそうだが、フリース宛書簡には核心語彙をラテン語(matrem、nudam)を使用しつつこうある。

後に(二歳か二歳半のころ)、私の母へのリビドーは目を覚ました meine Libidogegen matrem erwacht ist。ライプツィヒからウィーンへの旅行の時だった。その汽車旅行のあいだに、私は母と一緒の夜を過ごしたに違いない。そして母の裸を見る機会 Gelegenheit, sie nudam zu sehenがあったに違いない。…私の旅行不安 Reiseangst が咲き乱れるのをあなたでさえ見たでしょう。

daß später (zwischen 2 und 2 1/2 Jahren) meine Libidogegen matrem erwacht ist, und zwar aus Anlaß der Reise mir ihr von Leipzig nach Wien, auf welcher eb gemeinsames Übernachten und Gelegenheit, sie nudam zu sehen, vorge fallen sein muß…Meine Reiseangst hast Du noch selbst b Blüte gesehen.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、4.10.1897)

フロイトというと通念としては「エディプスコンプレクス」と言うことになっているが、エディプスコンプレクスとは「マザーコンプレクス Mutterkomplex 」(『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年)、あるいは「母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter」に対する防衛に過ぎない。

母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これを別名、リビドー固着、あるいはトラウマへの固着等(原症状)と呼ぶのである。




ようするにリビドー固着(≒原抑圧)は、治療不能である。フロイト自身がそうであったのだから間違いない。すくなくとも自由連想などまったく効果がない。


この固着とは事実上、外傷神経症である。固着とは「身体の上への刻印」という意味であり、エスのなかに身体的なものが居残るのである。初期フロイトはこれを不安神経症と呼んだ(後年、自由連想が機能する精神神経症 psychoneurose に対して自由連想がまったく機能しない現勢神経症 Aktualneurose とも呼ぶようになる)。

不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

この固着(原抑圧)こそラカンのサントーム(享楽の固着 fixation de la jouissance)である。

四番目の用語(サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

フロイト・ラカンとも還元不能という表現を使っているが、この外傷神経症と構造的には等価の原症状は、中井久夫も言う通り、治癒不能なのである。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)

ところでリビドー固着に悩まされたフロイトは、この相において自閉症的である。

ここではエキス語彙だけ抜き出した図表を掲げるが、次の語彙群は事実上、すべての同じ意味内容をもっている(参照)。




ーーブロイラーの4A(参照)に対して、フロイトの3Aである(ラカン派概念をふくめて5A).。


(もっともブロイアーの4Aは意味内容が等価というわけではない)。


そしてフロイトのリビドー固着とはラカンのサントームである。サントームについては、たとえばPierre-Gilles Guéguenはこう言っている。

サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


上の表でしめしたフロイトにおける自体性愛とは原ナルシシズムのことであり(ラカンは原ナルシシズム=自体性愛=自閉症的享楽としている[参照])、フロイトが「原ナルシズム的」というとき「自閉症的」と置き換えてもよいのである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

人はみな「母への自閉症的リビドー備給」をもっている。これが、幼児期のトラウマへの固着、つまり身体的なものがエスのなかへの居残ることの典型事例であり、固着による反復強迫が発生する。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

そしてこれを(構造的)外傷神経症と呼んでもよい。

(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)

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以上、このところ「自閉症」という語彙を頻用したが、現在、DSMで使われている「自閉症」と、フロイト・ラカン派における「自閉症」とは、かなり異なる内実をもっているだろうことを示してきた。それを明瞭に示さないままでラカン派が自閉症という語彙を使うのは知的犯罪行為である。

現在のDSMにおける「自閉症」は、ネット上にあるものでは熊谷晋一郎『当事者研究に関する理論構築と自閉症スペクトラム障害研究への適用』の冒頭に比較的詳しく書かれている。

統合失調症における自閉症という言葉の使われかたと、カナーやアスペルガーが用いた自閉症とは意味するものが異なる。後者の自閉症は発達不全であって、退行ではなく、幻覚妄想はあったとしても統合失調症と比べて貧しい。同一の用語を二つの異なる状況を表すのに使ったせいで、統合失調症と自閉症との関係について、初期は混乱が起きた。カナーの著作では「自閉」という用語の使用の由来について触れられていないが、アスペルガーの著作では丁寧にブロイラーの用語との異同が記述されている。 (熊谷晋一郎『当事者研究に関する理論構築と自閉症 スペクトラム障害研究への適用』)


基本的にはフロイト・ラカン派の自閉症とは(現在に至るまで)ブロイラーの自閉症に起源がある。事実、ラカン主流派では、分裂病的享楽 jouissance schizophrène と自閉症的享楽はほとんど同じ意味合い使われている場合が多い。後者のほうが重度(起源的)というだけである。《自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet》 (ミレール 、Première séance du Cours、2007)

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症(自閉性Autismus)と呼ぶ。

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.

Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

他方、DSMのほうは、熊谷晋一郎の言うようにカナー、アスペルガーの自閉症に起源がある(もっともこれ自体、異論があるのかもしれないが)。

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※付記

なおフロイトは、わたくしの知る限りでだが、「自閉」という語自体は二度しか使っていない。

外界の刺激から遮断された心的装置の美しい事例、(ブロイラー用語を使えば)栄養欲求さえ「自閉的に autistisch」満足をもたらすこの事例は、殻のなかに包まれて食物供給がなされる鳥の卵である。そこでは母の世話は、保温に限定されている。

Ein schönes Beispiel eines von den Reizen der Außenwelt abgeschlossenen psychischen Systems, welches selbst seine Ernährungsbedürfnisse autistisch (nach einem Worte Bleulers) befriedigen kann, gibt das mit seinem Nahrungsvorrat in die Eischale eingeschlossene Vogelei, für das sich die Mutterpflege auf die Wärmezufuhr einschränkt.; (フロイト『心的生起の二原理に関する定式 Formulierungen über die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens』1911)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトには二次ナルシシズムと一次ナルシシズム概念があるが、ここでのナルシシズムは一次ナルシシズム(原ナルシシズム)である。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

ーー「自我のナルシシズムは二次的なもの」とは「二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus 」(フロイト『新精神分析入門』1916年)という形でも表現されている。

そして分裂病と自閉症概念の創出者ブロイラーはこう言っている。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)