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2019年6月26日水曜日

私は本当に自閉症的です

樫村晴香)自閉症だと、幻想の皮膜が自己の身体表面までしかない。それと反対にあなた(=保坂)の作品は、世界全体が自己の幻想の外延と重なって、他者の悪意を登記する装置がなくなるように感じる。一方、私は本当に自閉症的で、幻想は身体表面までしかなく、その外側は完全に言語野で抑えようとする。(「自閉症・言語・存在」保坂和志『言葉の外へ』所収)

⋯⋯⋯⋯

最近の日本では、「ドゥルーズと自閉症」などと言っている連中がいるそうだな。

樫村晴香を想い出しちゃったよ。

現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?)

諸悪の根源は、DSMの「自閉症スペクトラム」概念なのだろうが(参照:「自閉症」増大という新自由主義のやまい)、それは差し置いても、神経症ドツボの連中がド不感症はしょうがないにもかかわらず、ホントにマが抜けてるやつばかりだな。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ーーやあよかったな。ボケのせいで優位に立てて。

でも中原中也=宮沢賢治が「自閉的なるもの」の定義をすでにしてしまっていることにはまったく不感症なんだろうよ。

彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」昭10.6)

ーーこれが「自閉的なるもの」を言っているだろうことは、のちに引用する樫村を読めば、いっそう瞭然とする(もっとも神経症連中は、樫村の文と闘えるものなら闘ったらいいさ)。

なにはともあれボケ連中は、自閉症概念を「思想的あるいは哲学的に」ふりまわすのはやめといたほうがいいんじゃないかな、限りなく遠いポジションにいるんだから(治療者は別だけどさ、神経症ドツボの臨床家でも患者に応じなければならないのだから)。

私がもっと精神病的だったら、おそらくもっとよい分析家になれたのだが。Si j'étais plus psychotique, je serais probablement meilleur analyste.(ラカン、Ouverture section clinique 、1977)

ーーここでのラカンは分裂病を精神病の下位分類として扱い、分裂を含めて精神病として語っている。





上の分裂病と自閉症の区分は、この二つの概念造語者ブロイアーのもので、ここから現在はDSM的概念変貌があるのだろうけど、基本はこれだよ。《自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet 》(ミレール 、Première séance du Cours、2007)。もっとも現在のラカン派は、分裂病はすでになんらかの形で「主体の故郷である自閉症」に対する防衛があるという観点が主流。

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症(自閉性Autismus)と呼ぶ

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.

Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

ブロイラーはそれまでの「早発性痴呆」という語を言い換えるために「分裂病Schizophrene」という語を作り出した。同じくブロイラー概念「自閉症Autismus」はもともと、分裂病の四つのの「基本症状」の一つを記述するために用いられた言葉。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。(中井久夫「関与と観察」2002年)



先に掲げたブロイアーの文には次の註が付いている。

註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


ラカンの自閉症という語の使い方は、この「自体性愛 Autoerotismus」がベース。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

後年のラカンはこれらの表現群を、「自ら享楽する身体」としている。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「(ミレール, L'être et l'un、2011)

先に引用したセミネール10「不安」に戻れば、原ナルシシズムとあるのは、フロイトがこう言っているから。

ナルシシズム精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen、つまり分裂病 Schizophrenien(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

あるいはこうもある(その他もろもろは→ 参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

いまこの話がしたいわけじゃないから、ここでは飛躍していうけれど(ほんとは自閉症の底にある「去勢」が肝腎なのだけれど)、欲動あるいは享楽とは「自閉症=身体の自動反復」のこと。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ま、これらはあくまでラカン派の捉え方だから、DSM的自閉症概念をこねまわしてなんたら言っているんだろうがね。

それはそれでいいさ。でもせめてわが樫村ぐらい処理してから物を言ったほうがいいんじゃないかね。それともやってんだろうか?

だったら(思想的・哲学的には)、「ドゥルーズと自閉症」を言うまえに、「ニーチェと自閉症」と先に言った方がいいんじゃないかな。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年ーー心は身体に対する防衛である


そもそも神の死をいう者、大他者を徹底的に疑う者はみな「自閉症的なもの≒身体的なもの」にいきつくんじゃないか、とかね。つまりまともな「哲学者」は、本質的に自閉症を問うことになると。

デカルトの「私の肉体meinen Leib」にたいして…ハイデガーの現存在 Daseinには疑いなく「肉体chair」はない。Cette chair est sans doute gommée dans le Dasein heideggérien (ミレール 、L’inconscient et le corps parlant、2014)

さらに言えば、非自閉的な「真の詩人」なんているのかい、と。この記事はじつは宮沢賢治ぞっこんの詩人暁方ミセイの「私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね」の続編としても記している。


◼️ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 (樫村晴香)

永劫回帰の総体は、彼に悪魔の囁きという、思念的‐聴覚的な、ひとつの現実的「体験」と して訪れた。ある晩、悪魔が彼の孤独に忍び寄り、これまで生きたこの人生を、さらにまた無限回、何一つ新しいものなくくり返さねばならないことを語りかける。この瞬間の眼前の 蜘蛛も、梢を洩れる月光も、悪魔の声も、あらゆるものが細大漏らさず回帰するだろう。こ の同じことを、何千回となくくり返し欲し続けるためにのみ、人は自らの存在と人生を、さらに愛さねばならないというのだろうか?……。

もし人がニーチェの言葉に直接耳を傾ける なら(つまりハイデッガーのそれも含めて、解説書を通じて何かを「理解」しようとしないな ら)、この体験が「真実」であり、そこには表現の一語一句が代置不能な価値をもつ、緊密な「物理的実在」が存在し、その実在的力によって、啓示‐伝播の最大限の魅惑‐暴力が駆動することが、了解されるだろう。体験が「悪魔」の「声」を通じて到来したこと、すべてが 「無数」に到来し、それが「苦痛」をもたらすこと、そして眼前に「蜘蛛」と「月の光」が「見える」こと。これらすべてが固有の理論的‐実体的(症候的)価値をもち、しかもそれらは狭い意味での発症過程の症候的要素というのではなく、そこに至る彼の、ディオニュソス、偽装、 真理の転倒、善悪の彼岸、力‐意志、といった「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての、(表現‐表象ではなく)内実そのものとして立ち現れる。

彼は Dz(ガタリ‐Dz)のように諸差異の肯定‐欲望を称揚するのでなく、「再び欲望する」ことがいかに「困難」かを述べている。なぜなら(クロソフスキ ーもまた別の仕方‐病でそれを体験したように)永劫回帰において、実際に人は「無数のもの」を完全には忘れていないからであり、それは(彼が最後の明晰さの中で「歴史上すべての名は、私であった」と語ったように)人格的同一性の解体に帰結するが、しかし愛すること、欲することは、自己、他者、および両者の関係の想像的恒存性=幻想に由来し、その 幻想的誤認は、無数の諸差異の忘却を基礎づけ、かつ忘却に依存するからである。

無数のものとは、実際は全く同じ体験の再帰ではなく、今日の月、昨日の月、一昨日の月という無数のもの、さらには一瞬ではないこの今に、刻々と参入するこれら無数の月である。人 が知覚の場におとなしくいる限り、事実けっして同じではない無数の月(の入力)は、一つの月として出力される。実際犬でさえ、無数の肉片を同じ肉として認識‐記憶し、それができなければ淘汰される。ニーチェがくり返しいうように、同一性‐認識‐目的は、「微細な美的感覚をもつ貴族でなく鈍感な下層階級を繁殖させる」ダーウィン的‐遺伝子的原理によって、最終審級で支えられる。

とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。

ニーチェの「批判哲学」が対象への憐憫と郷愁そして無関心、他方での尋常でない狂暴さという不均衡を露にするのに対し、Dz の言説が全く穏便であり、しかしその展開において、常に想定された批判対象への備給を続ける執拗さをもっていることは、歴然たる違いである。これは 結局、ニーチェが自己の体験‐実体に魅惑、というより蹂躙されていたのに対し、Dz がニ ーチェの体験‐言説に魅惑されていることの違いに回付される。人が「言説」に魅惑される限りで、思考の主体としての能動性(つまり批判的思惟)は放棄されず、魅惑の対象に対する受動性は、受動=能動という一体として可能となる。つまり魅惑されること(=幻想)という受動性が、思考‐批判という(魅惑するものの否定的対立物に向かう)能動性と、同じ領野に属し、相互に結合可能となる。

例えば分裂病者が「正月とは全身の毛を剃ることです」 というとき、それは比喩‐隠喩ではなく、本当に正月の意味内容とは「全身の毛を剃る」身 体作用なのだと理解せねばならない。

ここでニーチェとハイデッガーの位相の相違を端的に確認すると、まずニーチェの言説は、 厳密な意味で隠喩とよぶべきものと無縁である。一見した水準でも、既述のごとく、彼の作 品は一つの体験という要約不能な実体であり、そこでは眼前の蜘蛛や水道栓のたてる音、 プラトンが与える憂鬱さ等は、すでに獲得された観念を比喩する表象ではなく、そういった 観念、表象のオーダーそのものから「その彼方へと遠ざかっていく物理的な感覚」の直接 的提示として機能する。

ここで隠喩という機能の内実を確認しておこう。まず隠喩とは、基本的にすでに獲得された意味内容‐抑圧物を表象し回帰させる作用である。しかも厳密な意味での隠喩とは、いったん獲得‐抑圧された意味内容‐抑圧物‐外傷を示唆すること で、不快な抑圧物を再帰させて主体を原初的な反復‐攻撃の体勢に退行させ、その上でさらにそれを隠蔽‐回収してやることで、主体を原初的‐想像的な「よき他者」の前に再帰させ、幻想を補強するような言葉である。例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただ しい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、し かし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残して いく。この開示/隠蔽という対立(「純粋な矛盾」)が「悦楽」を生産していく過程は、いうま でもなくハイデッガーのアレーテイアの開示/隠蔽が、同様に帰属するオーダーであり、 そこで矛盾‐運動‐振動とは、抑圧物の再帰とともに駆動する不安と、それを押し止める他者‐力との間の、基本的に幻想的‐想像的な対立として駆動する。

これに対し、ニーチェを襲う強度‐反復としての運動‐拍動は、幻想の保護の向こう側で、主体が全くの異物としての現実‐悪しきものに直面し、それを反復=模倣=攻撃しつつ、主体としては解体していくよ うなオーダーに帰属する。それゆえ、ニーチェ的永劫回帰では、感覚と気分の結合‐再帰 ‐意味は最終的に不能であり、それゆえ矛盾=対立もまた、異なるものの結合‐同平面化を 前提とするゆえに存在しない。それに対しアレーテイアのオーダーでは、抑圧物(死)の回帰は、常にすでに幻想‐他者の力(隠喩の力)によって過ぎ去ったものとして幻想の内部で生じるので、そこでは疎通不能性‐無数性ではなく、幻想的な力に帰属するものとして の、一つの対立こそが問題となる。つまり対立‐振動あるいは平衡する緊張は、多様な場に発見されつつも、常に同じ一つの不安と、不安への同じ一つの闘いである。あらゆる存在者の下には、それを可能にしている力の均衡、「聖なる神殿が岩石から引き出す、無に 押し込められて支えるということの暗さ、さらには自らをよぎる嵐の暴力」が発見されるが、 それは結局、隠喩‐幻想(聖なる神殿)によって開示‐遂行‐終了される、抑圧物(重力、嵐) をめぐる同じ一つの拮抗である。

例えばニーチェの永劫回帰は、 Dz の「理論構造」から判断する限り、永劫回帰の隠喩として受容‐処理されているが、現実には、Dz はすべての言説を、隠喩ではなくそれこそ「音楽を聴くように」、または小説のエクリチュールを読むように、「半覚醒的に」受信していたのだろう。そしてその感覚があればこそ、意味作用を完全に確定することなく宙吊りにし、理論的分節を半ば未確定に開いたまま次々進み、個々の論点相互の差異へは鷹揚なまま、すべてを取り入れ絶え間なく移動していく、増殖するエクリチュール‐小説のごとき彼の記述スタイルが可能になる。こ の半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される過程 にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共 鳴に、帰属する。子供が泣き、豚が叫び(キャロル)、Kの分身の学生が走り、廷丁が走る (カフカ)。意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異‐変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異 ‐移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそ Dz の内発的感覚がある。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点』)

ーー以上、偏向記事でした。