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2019年6月27日木曜日

非自閉症者こそビョウキ

自閉症ってのは、訳語が悪いんだよ。

「自閉症」と訳される Autismus は、ギリシア語のautos(αὐτός 自己)と ismos(状態)を組み合わせた造語、つまり「自己状態」。だいたいときに「自己状態」にならなくってどうやって生きていけっていうんだい? 「自己状態」に縁のないらしい非自閉症者こそビョウキだよ。

「自分状態」は本来、「閉じる」の意味はない。エディプス的父の隠喩に支配された言語秩序の「タガメ」によって「閉ざされている」のは、むしろ標準的な神経症的主体のほうさ。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S3、1956)

そもそもマガオで役にも立たない論文形式の書物を連発してる学者種族ってのは、まともな人間だったらビョウキと判断するに決まってるだろ。ラカン派にも若いもんのなかにそんなヤツがいるが、よっぽど「人はみな妄想する」が好きなんだろうよ。ま、エライことはエライがね、最初にボク珍の書物は終生すべて妄想です! って宣言したようなもんだからな。こういうヤツが「ドゥルーズと自閉症」とか言っているらしいが、ワラケルぜ。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファロス」なのである。(花輪光「ロマネスクの作家 ロラン・バルト」)

大切なのは、バルトのいう自閉的な「身体の記憶」のみに依拠したエッセイやら小説やら詩やらを生むことなんだがな。

匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)

これこそ真に「自分状態」を愛したエッセイストの決定的叙述さ。エッセイスト → アマチュア → アマトゥール(愛し、愛し続ける者)。

フロイトの自体性愛というのも本来、自己エロスと訳すべきであり、これこそ自閉症概念造語者ブロイラーの言っている真の意味合いだ。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


ところで晩年のラカンにとって、神経症ってのは「究極の父の版の倒錯者」なんだけどな、でも連中は自分はまともだと思っているからトッテモ厄介なんだ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、1975)

非自閉症者は「善人」と呼ばれることもあるらしいがな。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

ニーチェはこの善人を美しい魂と呼んだのさ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)