このブログを検索

2019年7月21日日曜日

扉の向こうの女





Pinterstで拾ったんだけど、ちょっといいな、映像関連のインテリ諸氏は、フレーム内フレームの奥行きをもたらす美とかなんとかいうんだろうが、そんなことはどうだっていいや。扉のむこうには女がいる、それでいいのさ。


海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)
僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)


















一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)(弘法大師空海『教王経開題』)

母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?(ラカン、S5、15 Janvier 1958)

母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、S4、12 Décembre 1956)

quoad matrem(母として)、すなわち女というものは、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)

男は女になんか興味ないよ、母がなかったらな。un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)