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2019年7月24日水曜日

見出された階段

まず小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(1962年)の最後近くにいくらか離れてあらわれる二つの階段映像である。





小津はこのときまで一度も階段を写したことがなかったらしい。蚊居肢散人は小津の全作品を観ているわけではまったくないので(三分の一にもいっていない)、カクとしたことはまったく言えないが、蓮實重彦が「小津の映画では、階段が写らない」(『監督小津安二郎』)という意味合いのことを言っているらしいのでたぶんそうなんだろう。

ようするに小津作品において二階は女たちの聖域であり、階段を写すことに対するなんらかの「憚り」があったのだと考えうる。

以下、中期の名高い作品にて現れる「失われた階段」--けっして写らない階段ーーである。




なぜ遺作になって階段を撮ったのかについての憶測は、「赤いおまんこ」でいくらか示唆したが、あくまで暗示であり、ここで遺憾ながら下品なフロイトをまたまた引用しておくべきだろうか?

階段・梯子・踏台、ことにそういうものの上を昇降することは性行為の象徹的表現である。…テーブル、食卓と盆は女を現わす。(フロイト『夢解釈』)

もっともこういうことは蚊居肢散人の意にすこぶる反するのである。巷間の小津信者の方々、お許しを! そもそも蚊居肢子は文学的にであれ映像的にではあれ破廉恥には振舞いたくないのである。

これらを…精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式としてそこに露呈されているだけなのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

というわけでここで、フロイトではなく、せめてゴダールを引用しておかねばならない。


確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)


さて、だが無とはより具体的には何だろうか。それがなによりもの問いである。ここでまた下品な精神分析にたよらざるをえないのは忸怩たる思いであるが、いかんせんやむえない。今のところほかに手蔓がないのである。


イマージュは見せかけ(仮象)である
人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
イマージュは、見られ得ないものにとってのスクリーンである。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir(J.-A, MILLER, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.-A, MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)
イマージュは穴を隠蔽している
対象aは、穴である。l'objet(a), c'est le trou(ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
対象aには、現実界的な無 rien と見せかけsemblantがある。前者は現実界的な対象a(穴)であり、後者は、フェティッシュとしての見せかけ [semblant comme le fétiche]である。(J.-A, MILLER, la Logique de la cure, 1993)
イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(J.-A, MILLER, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)



最後にゴダールの『(複数の)映画史』より別々にあらわれる二つのマージュをひとつのシークエンスにして掲げておこう。




ーーこの蚊居肢散人編集によるイマージュには穴の真意があまりにも瞭然とあらわれすぎており、不感症者向けとさえ言いうるが、この際やむえない。

蛇足ではありながら、さらに下品な精神分析に依拠して捕捉すれば、穴の起源は永遠に喪われている対象の引力である、ということになっている。おそらくゴダールはそんなことはとっくの昔から感得している筈であるし、生涯独身で母に操をたてた小津もしかり。


穴は引力である
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
フロイトは、原抑圧 Urverdrängung を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
永遠に喪われている対象
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン, S11, 13 Mai 1964)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)