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2019年8月14日水曜日

太平洋戦争海外出張比率

すこしまえ「慰安婦か強姦か」で次の図を貼り付けた。





この300万人というのは「海外出張」の兵士であり、内訳はこうある。




ところで、300万人とは、当時の男の何パーセントぐらいなんだろう? ネット上でははっきりしたデータは見当たらないのである。
 
ただし1945年の男女人口構成数はこうある(これは、戦地死亡者をどう扱っているのかわからないが)。



1940年から1945年にかけて男の人口、3660万人から3390万人へ移行している。270万人の減少である。他方、女性の人口は微増している。

ここでは1945年ではなく、1940年のデータしかないのでそれを見るが、当時の7300万人の人口のうち、19歳以下の人口は、3400万人も占めていたようだ(下図参照)。他方、20〜64歳の人口は、3600万人で、総人口の49パーセント。

この比率から憶測すると、1940年の男性総人口3700万人のうち、約半数の1800万人が、20〜64歳の人口であり、上に示した海外出張組の300万人とは、20〜64歳男性人口6人に1人の割合となる。




ところで徴兵制度は次のようだったらしい(戦争末期の15歳で特攻隊などという例外は除き)。

徴兵制度の内容は、単純化すると 3 つの要素にまとめられる。第一に、日本男子は 17 歳から 40歳(1943 年以降は 45 歳)まで兵役につかなければならない。第二に、20 歳時(1944 年以降は 19歳時)に徴兵検査がある。そして徴兵検査の結果によって、兵役の義務の内容が異なってくる。第三に、兵役は年齢によって役割が変化する。つまり兵役には 17 歳よりつくが、20 歳の徴兵検査を経て、40 歳までの間、年齢によって異なる役割を担いながら服役し続けるという制度である。(「誰が兵士になったのか(1) ──兵役におけるコーホート間の不平等──」渡邊勉、2014年)

で、40歳までの人口構成をざっと調べてみようとしたのだが、ネット上には(探し方が悪いせいか)見当たらない。

いま上に掲げた渡邊勉氏の論文には、中村隆英『日本の戦時統制──戦時・戦後の経験と教訓』(日経新書.1974年)を引用しつつこうある。

アジア・太平洋戦争時に は、700 万人以上もの国民が兵士として戦地に送り出され、またそのうち 200 万人近くが戦死したのである。終戦時に軍隊に籍をおいていた者は 全人口の 18.6%、20 歳から 40 歳までの男子人口 に対する割合では 60.9% にも上る(中村 1974)(「誰が兵士になったのか(1) ──兵役におけるコーホート間の不平等──」渡邊勉、2014年)

ーーとはいえ、この60パーセントには海外出張だけではない。

さてどのぐらいの割合なんだろうか、当時の20 歳から 40 歳までの男子人口のうちの海外出張組は?

20〜64歳の男性人口1800万人のうち、1000万人が、20 歳〜40 歳とすれば、3人に1人程度は海外出張してたことになる。ようするに30パーセントほどである。

この「海外出張」には、よく知られているように、食べ物がとても不足していた。

この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。(藤原彰『餓死した英霊たち』)

ーー現在でも東北大地震処理等にまで綿々と続く、いわゆる「無責任体制」の帰結だと言っておこう。これはこの今でもSNSなどでしばしば見られる「おみこしの熱狂と無責任」(中井久夫)でもある。

彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。

「あは、あは」

彼は眼を閉じた。それを合図のように、蠅が羽音を集め、遠い空間から集って来た。顔も手も足も、すべて彼の露出した部分は、尽くこの呟く昆虫によって占められた。

蠅は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。しかし彼等は私と、死につつある彼と差別がないらしく―事実私も死につつあったのかもしれない―少しも怖れなかった。

「痛いよ。痛いよ」
と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。

雨が落ちて来た。水が体を伝った。蠅は趾(あし)をさらわれて滑り落ちた。すると今度は山蛭が雨滴に交って、樹から落ちて来た。遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。

「天皇陛下様。大日本帝国様」
と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。(大岡昇平『野火』)

もっとも食べ物が不足していたのは海外出張組だけではない。

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた「外米」はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔…〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」)

ーーよその国から食べ物を奪って「間接的な殺人」をせざるをえなかったのである。

………

最後に『俘虜記』からも引用しておこう。

部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。
一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。
彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。
山中の士気の維持が口実であった。
応じなければ食糧が与えられないのである。(大岡昇平『俘虜記』)
私は急いで附加えるが、私は何も暴行を是認するのではない。ただ人が誇張していることを指摘したいだけである。暴行は何千年来戦争につきものであった。しかしこの結合にはそれほど必然性があるわけではない。だから戦争に随伴する暴行を絶滅するには、戦争自体を止めるのが近道である。蕩児は売春婦に対して常に、夫は妻に対して屡々、暴行者である。廃娼を運動しても、主婦の権威を主張しても、街に売春婦が絶えず、妻が最後には夫に従う以上、売春と結婚の原因たる財を廃止するのが近道であろう。(大岡昇平『浮虜記』)