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2019年8月19日月曜日

内またねらふ藪蚊哉

スカートの内またねらふ藪蚊哉 (『断腸亭日乗』昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六)

………

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く非意味のシニフィアンを。Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… (ラカン、S24、17 Mai 1977)

「蚊居肢」とは、あまりに強すぎる欲動を飼い馴らすための非意味のシニフィアンである。

(人間における)すべての障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

幼少時、スタンダール的外傷体験をもった蚊居肢散人の苦肉の策である。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)


蚊居肢シニフィアンのおかげで、いくらか《症状の間隔が間遠に》なったのである(もちろん年齢のせいもあるだろうが、ここではそう言っておく)。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)


ま、ようするに「父の版の倒錯」シニフィアンである。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)


このシニフィアンは四文字が限界です。中上健次の発明した「路地」シニフィアンのように二文字か、荷風の「断腸亭」シニフィアンのような三文字が好ましいです。

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)


とはいえ、シニフィアンの発明程度では、効果がない方もいらっしゃることでしょう。

現在、評判の高い治療法のひとつとして倶利伽羅悶々療法があります。

刺青は、主体と身体との関係における「父の名」でありうる。Un tatouage peut être un Nom-du-Père dans la relation que le sujet a avec son corps. (J.A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)

外傷体験とはその定義上、身体の出来事であり、本来、身体で対応しなくてはなりません。

したがって刺青は効くにきまってんである。ヤクザ社会だけではなく、かなりの方が無意識的にこの効験あらたかな療法をやっている筈である。

現代ラカン派では、次のようなダイレクトな刺青刻印の話だってあります。

Such other feminine subject also at the exit of the adolescence chooses the tattoo as a mark of the link to the Other. She gets inscribed on her back the name of her father that she had lost during her early childhood. She had always been considered as 'the orphan'. "The lack of my father always pushed me towards the life during all these years", she says. By fixing this mark to the body in an indelible way, she tries at the same time to fix something of the cause which directs her love life. Here, the tonality is completely other, that is to say hysterical, and the body obeys the constraint of the castration. (Ordinary of the tattooed mark, Nassia Linardou - Blanchet, 2015


これこそ症状と同一化しつつ、かつ距離を取ることです。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

……というわけで、ここでの記述はゼッタイ安易二信用シナイデクダサイ。

あくまで現代ラカン派的「魔女のメタサイコロジー」の話です。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

とはいえ、《父の蒸発 évaporation du père 》(ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)あるいは《エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971)以後の世界においてはことさら、なんらかの魔女に頼らねば、人はみな欲動の暴発に戦々兢々とせざるをえません。《私は欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S20、08 Mai 1973)

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)