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2019年8月18日日曜日

「力への意志」としての女性の享楽

彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜、それはそこだ」

ーーなんかのメッセージかな、これ。だいたい誰の文なんだろ? バタイユのマダムエドワルダに似てるけど。スバラシイことは認めるよ、数年前のボクだったらゾッコンだったな。

ところで「黒い夜」とは、ラカン派用語では、穴(トラウマ)あるいはブラックホールのマテームS(Ⱥ) である。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

さて散文的に応答しよう。

私はポエジーに接近する。しかし、ポエジーに背くために(ポエジーを失敗させるために)。Je m'approche de la poésie: mais pour lui manquer (バタイユ『ポエジーへの憎悪 La Haine de la poésie』)

応答というか、いつものように引用するけどさ。


◼️自体性愛=原ナルシシズム=自己身体の享楽
フロイトが語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。 

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
「自体性愛 auto-érotisme」という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

※ここでは自体性愛(自己身体エロス)における自己身体の最も深い意味の内実については、その引用をはずす。簡潔に言えば、異者としての自己身体である。それについては「穴の享楽 la jouissance du trou」を参照。



◼️自己身体の享楽=自閉症的享楽
自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)
自体性愛 Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
愛Liebe は欲動蠢動 Triebregungenの一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


◼️固着による不気味な反復強迫
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,2/2/2011)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する要素 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)


◼️「黒い夜」の機能としての欲動の現実界
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatismeを為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)


◼️女性の享楽=自閉症的享楽(自体性愛)=享楽自体
自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。…

自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


◼️女性の享楽=サントームの享楽=自閉症的享楽
サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


◼️サントームの享楽=固着の享楽
享楽の固着 fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, décembre, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である Le sinthome, c'est le réel et sa répétition(MILLER、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


◼️享楽という原マゾヒズム=死の欲動
我々にとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自分自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であろう。Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb.(フロイト『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」1926年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

※参照:原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性



◼️欲動の飼い馴らされていない暴力
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)
力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
荒々しいwilden、「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 vom Ich ungebändigten Triebregung 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)
蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)

以上、「力への意志」としての女性の享楽となる。よりくわしくは「エスとリビドーの相違」を見よ。

簡単に示しておけば、ドゥルーズ やクロソフスキーが既に強調しているように、力への意志=永遠回帰であり、フロイトは永遠回帰を反復強迫とし、ラカンは享楽回帰 retour de la jouissance と表現した。そして享楽回帰とは、サントームの享楽=女性の享楽に他ならない。

サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)


で、ようするに「黒い夜」ってのは究極的にはこれしかないよ

静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)


フロイトは《力への意志 Willens zur Macht》を《エスの力能 Macht des Es》とも呼んだ。

エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


いやあ、ボクは女性的力への意志はとっても怖いよ、魅惑されないことはないけどさ。

どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)
女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは神秘だ。すなわち、性をめぐる情動と想像力のアウラである。エロティシズムは、ポリティカルレフトであれポリティカルライトであれ、社会あるいは道徳のコードによっては「固定」されえない。というのは、自然のファシズムはどんな社会のファシズムよりも偉大だから。性関係には悪魔的な不安定性があり、われわれはそれを受け入れなければならない。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”、2018)

ラカンの女性の享楽における「女性」ってのは本来的には解剖学的女性ではないのだけれど、解剖学的女性の享楽を受け入れることだって、まったくヤブサカではないさ、でももう還暦すぎだぜ。

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)

フェミニストたちはこのカーミル・パーリアからいまもって逃げてるから、寝言しかいっていないけどさ。ここにセクシャリティの全核心があるのさ。

じつに不幸な歴史だね。あのポリコレフェミ連中の跳梁跋扈ってのは。

いやあ自由連想みたいに文章が浮かんでくるな、このごろは。

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012年)
追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。(カミール・パーリア Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、2011年)
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(カミール ・パーリア Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)
私は、本能生活の非モラル性 amorality of the instinctual life において、フロイト、ニーチェ、サドに従っている。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

サドの名が出てきたのでこう補っておこう。

マルキ・ド・サドは、他者に苦しみをもたらしたと伝えられるが、半生涯を刑務所で過ごした。そしてマルキ・ド・サドの秘密はマゾヒズムであるとラカンは強調している。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
享楽への意志 la volonté de jouissanceは、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
死への道…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


で、真のフェミニストからはずれて「常識的」ラカン派を引用すればこうだ。

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 』2005年)
欲動Triebとは、主体自身が行きたくない場まで、主体を駆り立てる drive ことである。主体はすべてのコントロールを失う。すべての欲動の表出は暴力の要素を含んでいる。暴力なき欲動は、用語として矛盾である。「戦争ではなく愛し合おう Make love not war」は不可能な組合せである。(ポール・バーハウ、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998年)


話を戻せば、そもそも最近は、若いのだって逃げちまうはずだよ、冥界機械を露出させたら。ふつうはね。

何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


安吾は40歳のときーー三千代さんとの結婚一年前だな、ーーこう言ってるけどさ。

…そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)

どんなに頑張ったって、このくらいの齢までさ、男があの解剖学的女性の享楽にタエラレルのは。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアスの神話)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

ーーというわけで古典的な話だな。特殊な現象と思いこむほうが、まちがってる。

不安セミネールでラカンは言う、「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンはさらに強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…

最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)


そもそも女性の享楽なんてのは、まともな男だったら(すくなくとも無意識的には)とっくのむかしからわかってんだから、還暦すぎの常識派−モンテーニュ派としては隠すことをオススメするよ。

女性の好意は、段々に、ゆっくりとふり撒くことをおすすめする。プラトンは、いかなる種類の愛においても、受け身に廻る者はあっさりと性急に降参してはならないと言っている。そんなに軽率に、すべてを投げ出して降参するのは、がつがつしていることのしるしで、これはあらゆる技巧をこらして隠さなければならない。女性が愛情をふり撒くのに、秩序と節度を守るならば、一段とうまくわれわれの欲望をだまし、自分らの欲望を隠すことができる。いつもわれわれの前から逃げるのがよい。捕まえてもらいたい女性でもそうするのがよい。スキュティア族のように、逃げることによってかえってわれわれを打ち負かすのである。(モンテーニュ『エセー』)