このブログを検索

2019年8月3日土曜日

ゾーエーと享楽

前回(「エスとリビドーの相違」)、ニーチェが『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレで使用する lustは、ラカンの享楽 jouissance だとした。その基盤となる文を、ここでは簡略して再引用しよう。

学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではある。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

そしてジャック=アラン・ミレールの注釈がある。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

このジャック=アラン・ミレールの言っていることは当然なのであり、たとえばラカンはセミネール10にてフロイトの自体性愛(=原ナルシシズム)を自己身体の享楽、あるいは自閉症的享楽(=自己自身状態享楽)と等価なものとして扱っている。自体性愛 Autoerotismus という語は、「自己身体エロス」とも訳しうる語であり、自己身体エロス=自己身体享楽なのだから、エロス=享楽である。



フロイト
ラカン
Autoerotismus
自体性愛
(自己身体エロス)
jouissance du 
corps propre
自己身体の享楽
primären Narzißmus 
原ナルシシズム
jouissance autiste
自閉症的享楽



そしてこの自己身体とは究極的には出生とともに喪われた母なる自己身体であり、いま上に掲げた用語は、この母なる自己身体を取り戻す運動だということも示した。


これまた前回しめしたように、巷間で使用される享楽という用語は、そのほとんどが「剰余享楽」であり、したがってこの相が見えてこないだけである。



さてニーチェの酔歌の一節を再掲する。

おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年)

ここでゾーエー概念へと展開する。

古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエーZoë」(永遠の生)と「ビオス Bios」(個人の生)があった。アガンベンのはこのゾーエーを「剥き出しの生」としているが、ここで示すゾーエーは、アガンベンのそれではなく、カール・ケレーニイ解釈のゾーエーである。

まず核心的な文のひとつを掲げる。

ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

ここには明らかに酔歌のニーチェ、ーー《すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされている》のニーチェがいる。

ところでラカンは、リビドー(=愛の欲動 Liebestriebe、エロスエネルギーEnergie des Eros)を《不死の生 vie immortelle》としている。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

そしてこのリビドーがラカンの本来的な享楽である。

《生きる存在から控除される》とあったが、これは去勢のことである。出生とともに原享楽は去勢されるのである。

われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

この去勢(喪われたもの)を取り戻す運動が、始原の享楽回帰運動なのである。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ーー 《モノは母である。das Ding, qui est la mère 》(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzung(リビドー)を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

ラカンは原初の喪われた対象を胎盤だとも言っている。

例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(対象a)を象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)

この胎盤は文字通りとってもよいし、あるいはプラトンの「コーラ χώρα」のようなものとしてもよい。プラトン自身、『ティマイオス』冒頭で、コーラ chola は「母」であるとしつつ、こうもある。

およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるもの。(プラトン『ティマイオス』)

ここでふたたびカール・ケレーニイに戻ろう。

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)

ここでのケレーニイは基盤としてのゾーエーの上にビオスとタナトスがあると言っている。



前回も示唆したが、フロイトのエロスとタナトス概念はこのように捉えれば、すべてが解決する。上階にある個別の死としてのタナトス、個別の生としてのエロスは、両方とも地階の永遠の生に向かうエロス運動なのである。

そしてこの永遠の生とは、個別の生死の存在としては死とも捉えられる。

木村敏がとてもすぐれた注釈をしている。

わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)

こうしてニーチェの永遠の生につながるのである。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)

ここでリルケのドゥイノを引用しておいてもよい。

「第一の悲歌」より

天使たちは(言いつたえによれば)しばしば生者たちのあいだにあるのと
死者たちのあいだにあるのとの区別を気づかぬという。永遠の流れ
生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代を拉し、
それらすべてをその轟音のうちに呑み込むのだ。

Engel (sagt man) wüßten oft nicht, ob sie unter
Lebenden gehn oder Toten. Die ewige Strömung
reißt durch beide Bereiche alle Alter
immer mit sich und übertönt sie in beiden.


この相を否定した、フロイトのタナトス論、ラカンの享楽論は、わたくしにはひどく皮相的で到底受け入れがたい。

いわば哀れな哲学的パロールの審級にあり、反フロイト的、反ラカン的である。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)

※参照:原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性