なによりもまず、「熱心なニーチェ読み」のフロイトは、ニーチェの使うエスという語に魅せらて、リビドーの起源にあるものをエスとしたのではないか。
静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。
ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, -
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)
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何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)
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■エスについて
■エスについて
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…
(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェにおいて、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
この「エスの意志」は明らかにニーチェの「力への意志」への参照がある。
これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび諸科学(人間学 Wissenschaften)の女王として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)
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私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)
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蠢動(欲動蠢動 Triebregung)は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、S10、14 Novembre 1962)
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)
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私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰 ewigen Lebenswiederkehr の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・アンドレアス・サロメ Lou Andreas-Salomé, Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)
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力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
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永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。…しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
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現在、主流ラカン派(フロイト大義派)において、後期ラカンの鍵とされるフロイト文は次のものである。
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
この文は事実上、ニーチェの永遠回帰であり、力への意志である。ラカンは、原症状(サントーム)の根には原抑圧があるといっているが[参照]、原抑圧とは事実上、欲動の固着のことであり、現代ラカン派によってこのサントームは次のように表現されている。
ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
フロイト自身、すでにこう言っている。
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫 Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…
この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
話を戻せば、次の文には、《エスから自我への分化 Differenzierung des Ichs vom Es》 とあり、やはりフロイトがエスという語を使うとき、場の意味合いが大きい。
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我への分化 Differenzierung des Ichs vom Es が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
(フロイト『続精神分析入門』31講) |
Wo Es war, soll Ich werden エスがあったところに、自我は到らなければならない。(フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
わたくしはフロイト1933年の「自我ーエスー超自我」の図を右図のように図示することを好む。
そして次の文とともに読むのである。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ーーこの文における超自我は、いまだもって研究者のあいだでさえ「自我理想」や「父の名」と混同されて語られている超自我とはまったく別のものである(参照:超自我と自我理想の区別)。上の文をみてのとおり、《タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego》 (The Freudian superego and The Lacanian one. By Pierre Gilles Guéguen. 2018)
そして(いまはこの話ではないが)さきほどの図はフロイト版ボロメオの環として次のようになるのである。
さてエス自体の話に戻ろう。
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我 Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
次の文には《エスの力能 Macht des Es》という表現が現れる。これまた《力への意志 Willens zur Macht》への参照を読まないわけにはいかない。
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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■ラカンにおけるエス
ところでラカンはエスについて直接的にはあまり語っていない。《Wo Es war, soll Ich werden エスがあったところに、自我は到らなければならない》(フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年)についての当時の仏国における誤読への指摘はしているが、あとは次のものぐらいである。
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03 Février 1960)
モノla Choseとある。これはフロイトのdas Dingのことである。
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
次のラカン文には上にある《同化不能 unassimilierbaren》という語が出現する。
現実界は(心的装置に)同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
モノについて時期の異なるラカン発言をいくらか抜き出しておこう。
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
《喪われた対象objet perdu》とあるが、ラカンにとっての究極の喪われた対象は胎盤である。
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profond(対象a)を象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
《マゾヒズムmasochismeについての明示》ともあったが、マゾヒズムとは自己破壊欲動、死の欲動のことである。
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年
したがってラカンはこう言う。
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
我々にとって唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
■リビドーについて
次にリビドーである。これについてはまず重要だと思われる二文をいくらか長いが並べよう。
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。
われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。
しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。
これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。
……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)
私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
注)学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求 Bedürfnisses の感覚と同時に満足 Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
ジャック=アラン・ミレールは、このリビドーについてこう言っている。
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
libido=lust=jouissanceを当面受け入れて、ニーチェのツァラトゥストラのグランフィナーレの三文を享楽用語で示そう。
享楽 Lustが欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)
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おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -
……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第10節)
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享楽 Lustが欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。―― _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第11節)
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最後の文は、ラカンによる享楽の定義文のひとつとそっくりである。
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)
そしてここにあるのが、フロイトの原マゾヒズム=自己破壊欲動=死の欲動である。
マゾヒズムの根には、苦痛のなかの快 Schmerzlustがある。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
■リビドー=愛の欲動 Liebestriebe
上に引用した『集団心理学と自我の分析』には、リビドーは愛の欲動とあった。
最晩年のフロイトもこう言っている。
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
ところでフロイトには備給 Besetzungという用語が頻出するが、これはリビドーのことでもある。
「備給 Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい。(フロイト『無意識』1915年)
備給とは、英訳に基づいてカセクシスとも訳される語である(フロイトはこのカセクシスという訳語を好んでいなかったが)。
備給=リビドーという前提に立って次の文を読んでみよう。
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
この文にラカンの原対象a(原初に喪われた対象)がある。
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
先ほどの文でフロイトは、《負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle》と言っているが、負傷した身体部分とは去勢のことである。
私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
次の文は、最後のラカンの享楽定義文である。
われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
何種類もある去勢の意味合いについては、「四種類のおとし物」で記したが、ここではフロイトから直接引用しよう。
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離 Trennung von der Mutter、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
原初の生物学的去勢とは、上にあるように出生による母からの分離である。
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter ⋯⋯に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou(ラカン、S18, 27 Novembre 1968)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…
原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。…
人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatisme を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)
臍の緒やら胎盤やらという語が出現しているが、これが原初に喪われた対象aである。その後の対象aの代表的なものはまず母の乳房である。
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
原ナルシシズムあるいは自体性愛(自己身体エロス欲動)とは、ラカン派では「自己身体の享楽」と言い換えられているが、喪われた母なる身体を取り戻そうとする欲動なのである。
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
■なぜリビドー(愛の欲動)は死の欲動なのか
ここまで記してきたことから、一般の通念からしたら奇妙なことに気づくだろう。なぜ、愛の欲動であるリビドーは、自己破壊欲動であり死の欲動なのか、と。
ラカン自身こう言っている。
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
だがこれはフロイトがはじめてタナトス(死の欲動)概念を提出した論文に現れている内容である。
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.…
死への廻り道 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。…だが有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
究極の「以前の状態に回帰する」こととは、なんだろうか?
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
別の言い方なら、母なる大地への回帰、あるいは融合(=エロス)である。
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。
すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。
そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)
愛の欲動とは融合欲動であり、一つになりたいという欲動である。
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…
…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
1974年の「三人目の女」で、大他者の享楽は不可能だと言った翌年、ラカンは同じことを繰り返している。
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
くりかえせば大他者の享楽とは身体の享楽であり、ラカンのセミネール20「アンコール」(1972-1973)の最後の段階から、身体の享楽が享楽自体に変貌したのである。アンコール前半で示された享楽は、1973年の5月前後から始める後期ラカンの享楽ではない(参照)。
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
そして出生とともに去勢された母なる自己身体と融合してしまえば、死が訪れる。
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
身体に向かう享楽の相は、死への下降の相である。la dimension de la jouissance pour le corps, c'est la dimension de la descente vers la mort (J.-A. MILLER, Biologie lacanienne et événement de corps, 2000)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は生きている存在には不可能である。なぜなら享楽は自身の死を意味するから。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
こうしてエロスは死の欲動の側にあることがはっきりしただろう。
愛は死の欲動の側にある。l'amour est du côté de la pulsion de mort. (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)
いままで記してきたことをニーチェから引けばこうなる。
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう」"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" (ニーチェ「酔歌」第9節)
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのか Warum Krieg?』1933年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ここにはラカンの「欲動一元論」にたいしてフロイトの「欲動二元論」がある。だが、融合を分離させるタナトスとは、原初にある引力に誘引されながらも、それを避ける斥力運動であり、上に引用した『快原理の彼岸』の表現をつかえば、《死への廻り道 Umwege zum Tode》と言え、これ自体、死の欲動の一種である。そして基盤にあるのは引力の審級にある愛の欲動、その目的地としての融合=死である。最晩年のフロイトの言葉がこれを暗示している。
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
■究極のリビドーという永遠の生
ラカンは究極のリビドーを不死の生と言っている。そしてこのリビドーは、受生とともに控除される(差し引かれる)と。
リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
上に示した「リビドー=享楽」とするジャック=アラン・ミレールの注釈ならこうである。
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
さてこの受生とともに控除された不死の生をニーチェの永遠の生と結びつけてどうしていけないわけがあろう?
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
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十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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■ラカンの享楽と剰余享楽
享楽については上に記してきた通りである。そして究極の享楽(究極のエロス)は死である。それは、ここまで引用していない次の二文を読んでも瞭然としている。
私は欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。
それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
享楽と剰余享楽(穴と穴埋め)
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剰余享楽 le plus de jouir は…享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン, S17, 11 Mars 1970)
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対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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-φ[去勢] の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou [Ⱥ]と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
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わたくしは次の書を読んでいないので、遠慮しながら例にだすが、松本卓也『享楽社会論』(2018年)の書評にこうある。
タイトルが示すように、本書におけるラカン読解と現状分析の鍵となるのは享楽概念であるが、その理論的変遷―死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行―を著者はとりわけ強調する。(享楽社会論 現代ラカン派の展開 書評、河野 一紀)
この書評が正しいのなら、つまり《死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行》を松本卓也が強調しているなら、これはひどくミスリーディングな論旨である。ラカンにおいて死としての享楽はけっしてなくなっていない。それは上に見てきたとおりである。
ジャック=アラン・ミレールに、1999年の論文”Les six paradigmes de la jouissance,”があり、表面的に読むと誤解を生み勝ちな論なのだが、松本卓也くんが、ツイッターにてこの論に何度か触れているのをみたことがある(たしか翻訳をしたいとも口に出していた)。彼はこの論を素朴に受け取ってどこかで勘違いしてしまったのではないか。
人に受生と死があるかぎり、出生による享楽喪失と享楽の最終形態としての死の相はけっしてなくならない。
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
ーー《享楽はトラウマの審級にある la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen,(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
わたくしが好んで掲げてきた中井久夫=安永浩のファントム空間発達図がある。
安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
この図をラカン的にいくらか書き直せばこうなる。
この相を否定する享楽論はまったき誤謬である。
フロイト用語をも使って、より説明的に示せば次の通り。