このブログを検索

2019年8月10日土曜日

「共有された無知」のなめあい

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるもの signified がそのメンバー自身にとって謎の意味するもの signifier である。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。

この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく、ラカン派コミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン(専門用語)の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

きみたちは途轍もなく間違っている」で記したけど、この文はジジェク自身にも言えないことはないけどな。たとえばスロベニア三人組(ジジェク、ジュパンチッチ、ドラ―)は「現実界」という語を連発しているけど、あれも「共有された無知」じゃないかい? とね。

最近の蚊居肢散人の口癖はこうなんだな。

まぁ、世界というのはその程度のものだと思います。 (蓮實重彦ーー「私を泣かしたからにはゴダールを許さない」青山真治との対談)

とはいえ日本ではことさら共有された無知ぶりが酷いんで、たとえば、日本のフロイトラカン派「三馬鹿トリオ」、十川幸司ちゃんと原和之ちゃんと立木康介ちゃん、 互いの無知ぶり舐め合ってるみたいだけど、そろそろ相互酷評の時期じゃないかい? と言っておかなくちゃな。

あるいは松本卓也くんは「享楽の社会論」なる書で、ラカンの《理論的変遷―死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行》(河野 一紀、書評)を強調してるらしいけど、で、「哲学的に」享楽という原マゾヒズムから目を逸らせることにしたのかい? とかさ。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

小笠原ちゃんを馬鹿にするつもりはなかったのだが、ーー彼はもともと地底を這ってばかりいる人物だからーー、でも、ま、ついでに。

小笠原晋也@ogswrs Jacques-Alain Miller の jouissance の概念の理解も間違っています.彼は jouissance = réel と常々言っていますが,違います.(2014年09月10日)

ーー小笠原ちゃんは逆転移なんだろうな、ミレールに。

話を戻せば、で、自己破壊やら他者破壊をエンジョイするように移行したってわけかい? たしかにたとえばレイシストたちは他者破壊をエンジョイしてるかもしれないがね

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ところでラカン学者ムラでは、こんな悠長なことやっているヒマがあるらしいな。

@LacanBotJp 10月6日(日)日本ラカン協会第28回ワークショップ@京都大学は、「精神分析運動史——ウィーンとベルリンの栄光」と題して開催。提題は比嘉徹徳氏、藤井あゆみ氏。司会は松本卓也です。(2019年07月23日)

ま、それもいいさ。でももう少し「共有された無知」を是正する運動やったほうがいいんじゃないかね。アマトゥールの蚊居肢散人はつくづくそう思うようになったよ。

たとえば、原抑圧と去勢ってどう違うんだい? とか、ラカンは去勢は何種類もあるって言ってるけど、どんな種類があるんだい? とかな。

われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

まぁ、ボクはこれについて君らがトッテモ無知なのをヨ〜クシッテイルけどさ。

ほかにも向井雅明センセが2010年になってようやく二つの原抑圧があることに気づいたのを示してるけどさ。でも原抑圧ってのは二つだけじゃまったくないよ。

というわけで、またまた蓮實登場だよ。
若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)

やっぱり「専門家」ってのがよくないのかな。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』1988年)

でも無知共同体を安定させ過ぎだよ。たまには爆弾落とさなくっちゃな

それともあの無知の舐めあいってのは、やっぱ精神の中流階級せいなんだろうかな。

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)