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2019年8月8日木曜日

三馬鹿トリオ(日本フロイト・ラカン派)

たとえばーーこれはネット上に落ちているもので数年前ながめたことがあるのだがーー、「来るべき精神分析のために 」(2009/05/29 岩波書店) という座談会にはこうある。

(立木) ラカンの場合、1964 年に一度は現実界としての欲動に接近するけれども、そのあと「享楽」というタームがいわば欲動に取って代わってしまって、問いの本質が見えにくくなってしまっているところがあります。享楽というのは何よりも欲動の満足のはずだからそこで問われているのは本当は欲動のことなのですが……。

(原) フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川) それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905 年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。

(原) ただ、死の欲動に関しては言及されていますよね?

(十川) 死の欲動については、記憶や時間の問題系の中で取り扱っていて、欲動の問題とは考えていませんね。(「来るべき精神分析のために」 2009/05/29) 

これだけではなく、この三者はこの座談会でひどくボケたことを連発しているのだが、この当時、

十川幸司 1959年生
原和之    1967年生
立木康介 1968年生

ーー三者は十川が50歳、原、立木は40歳過ぎ。まだ若いのであまり馬鹿にしたくはないが、この際言わせてもらえば、この三者のこの時点の有様は、日本ラカン派三馬鹿トリオと呼ばざるをえないのである。ま、「ボク珍のラカン」を語ったゼロ年代の斉藤環やら佐々木中よりはいくらかマシの馬鹿と言っておいてもよいが。

なにはともあれ「日本フロイト・ラカン派のマヌケたち」で記したようにこの三者は、フロイト・ラカン理論の核心リビドー固着(原抑圧)の視点がまったくない。

十川氏は、彼が扱う欲動は、『性理論三篇』(1905 年)の欲動論であり、フロイト後年の死の欲動とは関係がないといっているが、これは全き誤謬である。

たとえば、『性理論三篇』にはこうある。

女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

フロイトは後年次のように言う。

母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

病因的トラウマとしての自己身体の上への経験(初期の自我への傷=ナルシシズム的屈辱)こそ、母なる自己身体の喪失であり、母への固着によって発生したものである(固着とは身体的なものが心的なものへと移行されず、エスのなかに居残ることである)。

そして、トラウマへの固着と反復強迫とあるが、これが死の欲動である。すなわち性理論三篇にあらわれる「母への固着」が死の欲動の究極の原因である。

フロイトは治療対象としては否定しているが、出産外傷を「母への原固着」、原トラウマとさえ言っている。

オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に「母への原固着 »Urfixierung«an die Mutter」 が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。

…だがおそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)

ラカンの次の発言群の基盤は上の文章群にある。

何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance  。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢、すなわち、

去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

ーーその他、もろもろのフロイトの叙述は、「去勢文献」を参照のこと。

ここでもう一度「性理論三篇」に戻ろう。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自己身体 eigenen Körper から満足を得るbefriedigtことである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性理論三篇』1905年)

この自己身体エロスとしての自体性愛についてラカンは次のように言っている。

「自体性愛 auto-érotisme」という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro.

…ヘテロhétéro、すなわち「異物 (異者étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ラカンは一見フロイトに反対していっているが、この異物概念は初期からフロイトにある。

トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そしてラカンは次のように言うのである。

異者身体(われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)

この異者身体こそ、究極的には母なる異者身体であり、死の欲動の起源である。
究極の死の欲動とは、この異者身体を取り戻そうとする運動であり、真に取り戻せば、母なる大地との融合=死である(参照)。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

原ナルシシズムは自体性愛と等価の概念である。

愛 Liebe は欲動蠢動 Triebregungenの一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)

そして異者身体が反復強迫(死の欲動)をもたらすのである。

心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

フロイトにとって女陰が不気味なものの起源である。

女陰 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女陰 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ラカンはこの女陰を「去勢によって喪われた原対象a」として胎盤と呼んだのである。

フロイトから抜き出せば次の文がわかりやすいだろう。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
「備給Besetzung」を「リビドーLibido」で置き換えてもよい。(フロイト『無意識』1915年)

この文脈のなかで、最後のフロイトーー死の枕元にあったとされる草稿に次の文がある。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

この母なる自己身体としての原ナルシシズム的リビドーこそ、事実上、死の欲動、あるいは原マゾヒズムにほかならない。→「原ナルシシズムと原マゾヒズムの近似性」。

次のフロイト文もすべて原ナルシシズムあるいは原マゾヒズムにかかわる。

生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.…

死への廻り道 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
エロスは接触Berührungを求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ラカンから抜き出せばたとえばこうである。

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
きみたちにフロイトの『性理論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)


以上、おわかりになっただろうか? 十川幸司がいかにマヌケであるかは、今うえに引用した《きみたちにフロイトの『性理論三篇』を読み直すことを求める》の文を引用しておけばすむ話ではあるが、ここではいくらかフロイト自身の記述にもとづいて記しただけである。ようするに日本フロイト・ラカン派の三馬鹿トリオの有様は瞭然としている。いや現在の状況をみるかぎりほとんど全馬鹿の有様が。まだまだいくらでも言いうるが、それはたとえば「穴の享楽 la jouissance du trou」をみよ。


………

※付記

上に「この三者はこの座談会でひどくボケたことを連発している」と記したが、たとえば三人のなかでラカン派観点からは一番まともそうな立木康介はこう言っている。

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされることです。(「来るべき精神分析のために」 2009/05/29)

以下、ラカンの情動である。

情動は、言語に住まうという特性を持っている身体にやってくる。Ainsi l'affect vient-il à un corps dont le propre serait d'habiter le langage, (ラカン、テレヴィジョン、1973)
次の点だけにでも誰か答えていただきたい、-ー情動は、身体に関係するのだろうか。アドレナリンの分泌は身体的なものだろうか、そうではないのか。この分泌が身体の諸機能を混乱させるということは事実だ。しかし、いかなる点においてそれは魂なるものからやって来るのだろうか。情動が分泌されるのは思考によってなのである。Qu'on me réponde seulement sur ce point: un affect, ça regarde-t-ille corps? Une décharge d'adrénaline, est-ce du corps ou pas? Que ça en dérange les fonctions, c'est vrai. Mais en quoi ça vient-il de l'âme? C'est de la pensée que ça décharge. (ラカン、テレヴィジョン、1973)

そしてまともなラカン派の注釈。

情動は歴史に支配されているLes affects sont sujets à l'histoire。これは簡単に理解できる。情動は享楽の地位 statut de la jouissance によって絶えず変化するので、情動は言語の効果 effet de langage のみではなく、言説の効果 effets de discours によって影響される。後者の言説の意味は、それが享楽の様相 modalités de jouissanceを統制する限りにおいて、社会的結びつき lien socialの特徴が情動を生み出すということである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
情動は、欲動とは異なり、身体とは直接に関係ない。逆に、情動の本質は置換・不安(現実界)を基礎とした換喩である。(ポール・バーハ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

ことほど左様に、すくなくとも2009年時点でのあの三者は馬鹿まるだしなのである。


………

最後にもう一度強調しておけば、究極の固着とは、母なる支配者、母なる原誘惑者による身体の上への刻印であり、死の徴である。

抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954) 
母子関係 relation de l'enfant à la mère…ファリックマザーへ固着された二者関係 relation duelle comme fixée à la mère phallique (S4, 03 Avril 1957)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

そしてこの固着をラカンは骨象aとも呼んだ。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

この固着こそ母なる原シニフィアンであり、死に向かう徴付けである。

私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17、11 Février 1970)
私が「徴 la marque」と呼ぶもの、「唯一の徴 trait unaire」…この唯一の徴 trait unaire の刻印 inscription とは、…死の徴(死に向かう徴付け marqué pour la mort) である。(Lacan, 10 Juin 1970)
象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

ようするに日本ラカン派ムラにはひどい知的退行があるとしか思えないのである。

身体に向かう享楽の相は、死への下降の相である。la dimension de la jouissance pour le corps, c'est la dimension de la descente vers la mort (J.-A. MILLER, Biologie lacanienne et événement de corps, 2000)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
享楽自体は生きている存在には不可能である。なぜなら享楽は自身の死を意味するから。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

→補足:「魔女のメタサイコロジイ