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2019年8月8日木曜日

日本フロイト・ラカン派のマヌケたち

いや、このブログの架空の登場人物「蚊居肢子」は、日本のフロイト・ラカン派のセンセが何をおっしゃっておられるのかほとんど無知である。だからそれに依拠してなんたら言ってこられてもお答えしかねる。

とはいえ蚊居肢子の見解では、フロイト・ラカン理論の核心は固着もしくは原抑圧である。

ラカンはすでに最初からーーセミネール1の段階からーーこう言っている。

抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation (Lacan, S1, 07 Avril 1954)

ここでの抑圧は最初の抑圧のことである。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)

この1911年の段階ではまだ原抑圧という語はフロイトにはない。その語がはじめて現れるのは、1915年である。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…この欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇のなかに蔓延りwuchert dann sozusagen im Dunkeln、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ラカンはこの文脈のなかで、後年つぎのように言うのである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



四番目の用語(= Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、…すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴 trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

そしてサントームとは事実上、原抑圧=固着=享楽である。現代ラカン派では「サントームという享楽(サントームの享楽 la jouissance du sinthome)」と言ったり、「享楽の固着 la fixation de la jouissance」と言ったりしている。

サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
享楽の固着 la fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet,  Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)

これはミレールの次の文を翻訳すればそうなる。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽(身体の出来事)はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

翻訳、つまり「享楽はサントームである。サントームはトラウマの審級にある。サントームは固着の対象である」である。

よりダイレクトに引用すれば次の通り。

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

そしてラカン派の「享楽の固着 la fixation de la jouissance」とは、フロイトの「リビドーの固着 Fixierungen der Libido」(欲動の固着)、あるいは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」のことである。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験rein zufällige Erlebnisse der Kindheit が、リビドーの固着Fixierungen der Libidoを置き残すhinterlassen傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 講 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ここでさきほど引用した「欲動の現実界」の文を再掲しよう。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

夢の臍とは、『夢解釈』に出現する語である。

どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は暗闇のなかに置き残す im Dunkel lassenことを余儀なくさせられることがしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けない「夢思想の結び玉 Knäuel von Traumgedanken」があって、しかもその結び玉は、夢内容 Trauminhalt になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり「夢の臍 Nabel des Traums」、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。解読においてわれわれがつき当る夢思想は、一般的にいうと未完結なままにしておく他ないのである。そしてそれは四方八方に向って「われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮 netzartige Verstrickung unserer Gedankenwel」に通じている。この編物のいっそう目の詰んだ箇所から夢の願望Traumgedankenが、ちょうど菌類の「菌糸体 mycelium」から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第7章、1900年)

フロイトはこの文の後、この「夢の臍 Nabel des Traums」あるいは「菌糸体 mycelium」を「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」とも呼んでいる。

上の文に《暗闇のなかに置き残す im Dunkel lassen》とあるが、さきほど引用した1915年の抑圧論文には、《欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、……それはいわば暗闇のなかに蔓延るwuchert dann sozusagen im Dunkeln》とあった。これが原抑圧であり、固着である。

そしてこの原抑圧=固着が、原無意識であり、エスの核である。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
人の発達史と人の心的装置 psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

フロイトはこの原無意識あるいはエスの核を欲動の根とも読んでいる。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

これらーー原無意識、エスの核、欲動の根、我々の存在の核、不変の個性刻印等々ーーはすべてリビドー固着の残滓(残存現象)である。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残滓Reste が保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

リビドー固着とは身体的なものが心的なものに移し変えられないことである。

(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

ようするに固着とは、人間が誰もがもつ構造的な外傷神経症であり、ラカンのサントーム(=サントームの享楽)自体、事実上、外傷神経症である。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

ラカンから直接引けば次の通り。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

この文脈のなかで欲動の現実界=原抑圧(固着)という1975年のラカンの発言がある。

以上、日本のフロイト・ラカン派のセンセがこの原抑圧=固着に不感症なら、蚊居肢散人は彼らをマヌケと呼ぶことにしているのである。