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2019年8月7日水曜日

どうして日本は嫌われるのか

そうだな、どうして日本は韓国にあんなに嫌われるのかってのは、--植民地というのはどの先進諸国もやってきたのにーー、柄谷行人の次の文がボクには最も説得的だな。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。

こうした「同一性」イデオロギーの起源を見るには、北海道を見なければならない。日本の植民地政策の原型は北海道にある。いうまでもなく、北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することによってなされたのである。その場合、アイヌとに日本人の「同祖論」が一方で登場している。(……)

この点にかんして参照すべきものは、日本と並行して帝国主義に転じたアメリカの植民地政策である。それは、いわば、被統治者を「潜在的なアメリカ人」とみなすもので、英仏のような植民地政策とは異質である。前者においては、それが帝国主義的支配であることが意識されない。彼らは現に支配しながら、「自由」を教えているかのように思っている。それは今日にいたるまで同じである。そして、その起源は、インディアンの抹殺と同化を「愛」と見なしたピューリタニズムにあるといってよい。その意味で、日本の植民地統治に見られる「愛」の思想は、国学的なナショナリズムとは別のものであり、実はアメリカから来ていると、私は思う。岡倉天心の「アジアは一つ」という「愛」の理念でさえ、実は、アメリカを媒介しているのであって、「東洋の理想」ではない。

札幌農学校は、日本における植民地農業の課題をになって設立されたものである。それが模範にしたのは、創設においてクラーク博士が招かれたように、アメリカの農業、というよりも植民地農政学であった。われわれは、これを内村鑑三に代表されるキリスト教の流れの中でのみ見がちである。しかし、そうした宗教改革と農業政策を分離することはできない。事実クラーク博士は宣教師ではなく農学者であったし、また内村鑑三自身もアメリカに水産科学を学びに行ったのであって、神学校に行ったのではない。さらに、内村と並ぶキリスト教徒の新渡戸稲造は、のちに植民地経営の専門家となっている。

北海道は、日本の「新世界」として、何よりもアメリカがモデルにされたのである。そして、ここに、「大東亜共栄圏」に帰結するような原理の端緒があるといえる。(……)日本の植民地主義は、主観的には、被統治者を「潜在的日本人」として扱うものであり、これは「新世界」に根ざす理念なのである。ついでにいえば、こうした日米の関係は、実際に「日韓併合」にいたるまでつづいている。たとえば、アメリカは、日露戦争において日本を支持し、また戦後に、日本がアメリカのフィリピン統治を承認するのと交換に、日本が朝鮮を統治することを承認した。それによって、「日韓併合」が可能だったのである。アメリカが日本の帝国主義を非難しはじめたのは、そのあと、中国大陸の市場をめぐって、日米の対立が顕在化したからにすぎない。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」初出1993年『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

柄谷行人の言ってるように、《支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである》。

ようするに愛のせいで、憎悪を生み出したのである。そしてその愛というイデオロギーのせいで、《支配した者に過去を忘却をさせる》のである。これは現在に至るまで、日本の政治家や知識人、学者においてさえ起こっていることだ。

ここでフロイトの愛と憎悪のメカニズムに触れよう。フロイト語彙では次の左項と右項は天秤の左右の皿関係にある。


 


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

ーー中井久夫の言っている自己破壊性は、他者に吸収される(融合される)という意味も含めて大きくとったらよい。

たとえば融合とは柄谷行人のいう同一化である。強い同一化施策は、強度の分離欲動もしくは破壊欲動を必ず生む。

ヨーロッパ共同体が融合・統合(エロス)に向えば向かうほど、分離・独立(タナトス)のナショナリズムの衝動が芽生える。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness, 1998年)

もっと一般的に言えば、受動的立場にたたされれば能動的立場への移行が起こる(極端な弱者でなければ)。受動性とは侵入(侵略)でもある。その立場を経験したものは、他者への攻撃性が芽生える。

過去の性的虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)

この認識は、精神分析の基本である。韓国にはあきらかにこのメカニズムが働いてきた。この機制が真にやむのは、日本が弱小国家に成り下がって、むしろ同情に値する国家として彼らが日本を見下すときだろう。中国(すくなくともその上流層)はその段階に達しつつある。韓国はいまは端境期である。

日本において嫌韓嫌中感情が猖獗するようになっているのは、主にこの歴史的移行事態にあるのではないかな。ようするにしだいに受動的立場に置かれつつある者たちの攻撃欲動発動だ。

たとえば、フロイトが精神分析の真の先駆者として顕揚するニーチェ、そのニーチェの次の文の「犯罪者」を「歴史修正主義者」に入れ替えて読んでみよう。

犯罪者は、単に自己の予め受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。…被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥する。(……)

共同体の力と自覚が増大すれば、刑法もまたそれに伴って緩和される。共同体の力が弱くなり危殆に瀕すれば、刑法は再び峻厳な形式を取るにいたる。「債権者」の人情の度合いは、常にその富の程度に比例する。結局、苦しむことなしにどれだけの侵害に耐えうるかというその度合いそのものが、彼の富の尺度なのだ。加害者を罰せずにおくーーこの最も高貴な奢侈を恣にしうるほどの権力意識をもった社会というものも考えられなくはないだろう。そのとき社会は、「一体、俺の所に居候どもが俺にとて何だというのか。勝手に食わせて太らせておけ。俺にはそのくらいの力はあるのだ!」と言うこともできるだろう……。――正義のこの自己止揚、それがいかなる美名をもって呼ばれているかを諸君は知っているーー曰く、恩恵。言うまでもなく、それは常に最も強大な者の特権であり、もっとも適切な言葉を用いるのならば、彼の法の彼岸である。(ニーチェ『道徳の系譜』)


安倍やらの自民党上層部だけではなく、たとえば橋下徹やら百田尚樹やらの道化師たちは、もはや中国上層部にとっては「恩恵」の対象になりつつあるのではなかろうか。極東の島国、あの小国のあの居候どもは、勝手に猿踊りをさせておいたらよろしい、と。事実、中国市場に経済的居候させてもらわねば、日本企業などもはやあったものではない。

………

※付記

幼少時、京城に暮した安岡章太郎の『僕の昭和史』はこのように始まる。

僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。(……)その頃、僕らは朝鮮京城の憲兵隊宿舎に住んでいた。父は職業軍人で陸軍獣医大尉であり、僕は南山幼稚園にかよっていた。(安岡章太郎『僕の昭和史』)

そしてかつてのソウル(京城)の叙述がある。

いまの京城、つまりソウルは、人口五百万とかの超過密都市で、東京と同様、或いはそれ以上に活気はあるけれど、自然環境の破壊も甚だしく、むかしの面影はまったくない。僕らのいた頃の京城は、人口はたぶん五十万ぐらい、小さいながら良くまとまって、ハイカラな感じの街だった。 僕らが住んでいたのは、本町(いまの忠武路)という目抜き通りの直ぐ裏手で、おもての通りには三越だの銀座の亀屋の支店だのが並んでいた。本町を南に行くと南大門の広場があり、そこには朝鮮銀行、その他、大きな会社の建物が集まっており、また町をちょっと出はずれたところに南山という丘があって、そこに僕のかよった幼稚園や小学校がある。この南山は、いまはKCIAの本拠になったおり、山の斜面一帯は新興資産家の住宅地になっていて、花崗岩やレンガで囲った家がぎっしり立ち並んでいるが、僕らのいた頃は朝鮮には珍しい青々として丘陵地帯だった。学校は斜面の中腹にあって、そこから少し奥に這入ると、深山幽谷のおもむきがあった。春先きなど、岩肌に張った氷の裂け目から奇麗な清水が湧き出しており、手をつけると千切れるほど冷たかったが、すくって飲むと体の中までスーッとするような、爽快な味がした。 空は、ほとんど一年じゅう晴れており、とくに冬になると青く澄んで、カーンと音がしそうな冴えた色をしていた。…
本町は、前にいったように京城で目抜き通りで、横浜や神戸の元町なんかにも似てシャレた店が多かった。しかし、このなかで朝鮮人のやっている店が一軒でもあっただろうか。店員も、客も、道を歩いている人も、日本人ばかりだったような気がする。

京城でも、母は日本人の女中を置いていた。最初はハルという人がいて、これがやめるとユクという人がきた……。考えてみると、これは当時、いかに人手が安かったかということだけではなく、いかに多勢の日本人が朝鮮に出掛けていたかということでもあるだろう。当時は日韓合併後、まだ二十年とたっていなかったはずだが、日本人は朝鮮のなかに完全に日本人だけの社会をつくり上げていた。南山幼稚園にも、南山小学校にも、朝鮮人の子供はたぶん一人もいなかったはずだ。そんなだから、僕は朝鮮に何年いても、朝鮮語というものは、二、三の単語を知っている程度で、まったく憶えようともしなかった。それどころか、朝鮮人に朝鮮語をつかうことを禁じ、朝鮮人ばかりを集めた朝鮮の学校で日本語の教育を強制した。そして後には、朝鮮人の姓を取り上げて日本姓にあらためさせるようにした。(安岡章太郎『僕の昭和史』)