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2019年8月9日金曜日

魔女のメタサイコロジイ

さて引き続いて(誤解のないように)もう少し確認しておこう。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

日本フロイト・ラカン派のマヌケたち」にて一部示したが、この文は何よりもまず、次のフロイト文に起源がある。いくらか長い引用になるが、フロイトにおける原思考を示そう。


夢の臍 Nabel des Traums、菌糸体 mycelium、
我々の存在の核 Kern unseres Wesens
どんなにうまく解釈しおおせた夢にあっても、ある箇所は暗闇のなかに置き残す im Dunkel lassenことを余儀なくさせられることがしばしばある。それは、その箇所にはどうしても解けない「夢思想の結び玉 Knäuel von Traumgedanken」があって、しかもその結び玉は、夢内容 Trauminhalt になんらそれ以上の寄与をしていないということが分析にさいして判明するからである。これはつまり「夢の臍 Nabel des Traums」、夢が未知なるもののうえにそこに坐りこんでいるところの、その場所なのである。解読においてわれわれがつき当る夢思想は、一般的にいうと未完結なままにしておく他ないのである。そしてそれは四方八方に向って「われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮 netzartige Verstrickung unserer Gedankenwel」に通じている。この編物のいっそう目の詰んだ箇所から夢の願望 Traumgedanken が、ちょうど菌類の「菌糸体 mycelium」から菌が頭を出しているように頭を擡げているのである。(フロイト『夢判断』第7章、1900年)
私は心の装置Seelenapparatにおける心的過程psychischen Vorgangの一方を「一次的なもの primären」と名づけたが、私がそう名づけたについては、序列や効果を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

「一次過程 Primärvorgang」しか持たないような心的装置psychischer Apparatは、なるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは理論的仮構 Fiktionにすぎない。しかし二次的な sekundären 過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、一次過程 Primärvorgänge は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの二次過程は一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめる頃においてはじめて完全に一次過程を支配するにいたるものなのである。

「二次過程 sekundären Vorgänge 」の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」は、無意識に発する願望衝動 Wunschregungenにもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識Vorbewußteにとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢判断』第7章、1900年)
一次過程 Primärvorgangと二次過程 Sekundärvorgang
私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動蠢動 Triebregungen は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動蠢動が一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseと類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
欲動の根 Triebwurzel
たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第7章、1937年)



フロイトが実際に原抑圧概念を初めて提出したのは、1915年だが、その内実は1900年の『夢解釈』に既にあるのである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。

…この欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇のなかに蔓延りwuchert dann sozusagen im Dunkeln、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘すると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装いによって患者をおびやかす。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

いや、実際は1900年でもない。上に1920年の『快原理の彼岸』で、(二次過程による一次過程の)《拘束の失敗は、外傷神経症と類似の障害を発生させることになろう》とあるが、この「拘束の失敗 Mißglücken dieser Bindung」と同義と捉えうる「翻訳の失敗 Versagung der Übersetzung」という表現が、1896年に既にある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896年)

ここでの抑圧は、原抑圧のことであり、上に一部見たように(より詳しくは→[参照])、フロイトにおける《抑圧は何よりもまず固着である。le refoulement est d'abord une fixation 》(Lacan, S1, 07 Avril 1954)ーーこれが原抑圧を捉える上での必要不可欠の認識である。

そしてこの「翻訳」という語は、最晩年の論にも現れる。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年) 

これが「我々の存在の核」である欲動の根(原無意識)であり、別名「エスの核」である。

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ラカンの欲動の現実界とは、この原無意識としてのエスの核である。

分析治療とは、この欲動の現実界にいかに対応するかにかかわっている。

以下、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』から引こう。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態 normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)

『終りなき』の引用を続ける前に先にことわっておかねばならないが、フロイトにとって「すべての神経症的障害」とはすべての症状のことである。フロイトには現勢神経症と精神神経症概念がある。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。(フロイト『精神分析入門』第24章、1916年)
原抑圧 Verdrängungen (固着)は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) 

ーー見ての通り、原抑圧の症状と抑圧の症状が、現勢神経症と精神神経症である。

そしてラカンのサントームとは原抑圧の症状である(参照)。

四番目の用語(= Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、…すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴 trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ようするにラカンが欲動の現実界(原抑圧の原症状=サントーム)というとき、それはフロイト用語なら現勢神経症であり、かつまた事実上、外傷神経症である。




ーー上階は心的・言語的症状であり、地階が身体的な症状ということになり、人の症状はこのような二重構造になっているのである。従来の治療方法(自由連想、徹底操作、幻想の横断、主体の解任)とは、上階の症状のみに機能する。

そしてサントームとは事実上、原抑圧=固着=享楽である。

現代ラカン派なら次のように言う。

サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval , Discontinuité - Continuité 2018)
享楽の固着 la fixation de la jouissance、(Catherine Lazarus-Matet, Une procédure pour la passe contemporaine, 2015)

これはミレールの次の文を翻訳すればそうなる。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽(身体の出来事)はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

翻訳、すなわち「享楽はサントームである。サントームはトラウマの審級にある。サントームは固着の対象である」である。

サントーム≒外傷神経症とは固着による反復強迫(死の欲動)である。

この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

この内容は、上に先ほど引用した『終りなき』にも現れている。《すべての神経症的障害の原因は……あまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。》

さて、『終りなき』の引用を続けよう。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後期抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…

分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。抑圧のあるものは棄却され、あるものは承認されるが、もっと堅実な材料によって新しく構成される。このようにしてでき上がった新しいダムneuen Dämme は、以前のそれとはまったく異なった耐久力をもっている。それは欲動強度(欲動の高まりTriebsteigerung)という高潮にたいして、容易には屈服しないだろうとわれわれが信頼できるようなものとなる。したがって、幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、 欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)

ーーここでフロイトが言っているのは、治癒不能の原抑圧=固着に対する「新しいダム neuen Dämme」を作るのが分析療法だということである。

だがこうも言っている。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり「魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie」である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

ーー「魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie」が必要だと。これは事実上、欲動要求を飼い馴らす解決方法はない、と言っていることになる。

この欲動要求こそ、リビドー固着の残滓であり、原始時代のドラゴンである。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungen が保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

上に引用した第7章の文も再掲しておこう。

たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第7章、1937年)

欲動の根、これこそ欲動の現実界であり、欲動の固着(リビドー固着)である。

………

以下、補足的にラカンが原抑圧は穴であると言っている意味を示そう。

フロイトは、原抑圧 l'Urverdrängung を他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)

ラカンは、この引力を穴と言い換えたのである。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)

そして穴とはトラウマのことでもある、《現実界は …穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す》(Lacan, S21, 19 Février 1974)。フロイト・ラカンにおいてトラウマとは心的装置に翻訳されない身体的なものを言う。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

そしてこの引力の核としての原抑圧は、フロイト自身、別名「トラウマへの固着」と呼んでいる。

幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

以上、フロイト・ラカンにおいて原抑圧もしくは固着概念がいかに重要であるかを示した。

………

ラカン的な魔女のメタサイコロジイは、主に、二種類のサントームの意味における「父の版の倒錯」である。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

もう一つのサントームの意味は身体の出来事であり、これこそリビドー固着である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーここでの症状は原症状=サントームの意味である(参照)。

「父の版の倒錯 père-version」という魔女のメタサイコロジイをもうすこし穏やかにいえば、原症状にかかわる「欲動の現実界=享楽の不可能性」の上に新しい症状を作ることである。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)


この欲動の現実界の上に「新しい症状を作る」ということは、従来の自由連想にかかわる徹底操作(ラカンの幻想の横断)の否定でもある。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー固執する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe)


日本でも、用語使いは異なるとはいえ、たとえば中井久夫はこの手法をかねてからとってきていると思う。

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。(中井久夫「症状というもの」1996年)
精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)

旧套の寝椅子治療に専念しているフロイト・ラカン派の分析家は、この移行に気づかないままなのではないだろうか。そもそもエディプスの斜陽があった1970年以後、そして日本においては殊更、つまりもともとエディプスの機能が弱い非一神教社会で、一神教文化のなかで生まれた手法、しかも旧套のフロイト・ラカン的自由連想(徹底操作)やら幻想の横断やらなど、一部のヒステリー症者の稀な生き残りという例外をのぞいて機能しないのではないかと、なによりもまず自ら問うべきである。しかも安易に徹底操作・幻想の横断(主体の解任)をしてしまえば、自己破壊性(原マゾヒズム)をもつ外傷的核を剥き出しのままに放置することになりかねない。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)

………

※付記

フロイトの原抑圧=固着にかかわる思考を示す最もすぐれて簡潔な文のひとつは、わたくしの知る限り、RICHARD BOOTHBYの次の文である。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

原抑圧という語も固着という語もあらわれないが、それはポール・バーハウの次の文で補えばよい。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)

よりラカン語彙で語られたものとしては、やはりジャック=アラン・ミレールの次の文がまずよいだろう。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父の隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式 forme linguistique において、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父の隠喩 métaphore paternelle」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残滓 restes」があるのである。その残滓が分析を終結させることを妨害する。残滓に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)