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2019年8月9日金曜日

原自閉症状態

いやあ、きみ。起源を問わない精神とはひどく厄介だな。

何度も掲げている図だが、次の状態が「原自閉状態 Ur-Autismus」であるだろうことは疑いがない。すこしでも人が原理を問う精神があるなら、こうなる。




自閉症 Autismus とは、古代ギリシア語からブロイラーが造語した概念であり、原義であれば、自己身体状態のことである。AUTOS+ISMOS、すなわち自己身体状態。

で、ブロイラーは《自閉症がフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものであるAutismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt》(『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)と言っている。

そしてのフロイトの自体性愛(=自己身体エロス)は原ナルシシズムと同義であり、ラカン派はこれを自己身体の享楽あるいは自閉症的享楽と呼んでいる(参照)。



フロイト
ラカン
Autoerotismus
自体性愛
(自己身体エロス)
jouissance du 
corps propre
自己身体の享楽
primären Narzißmus 
原ナルシシズム
jouissance autiste
自閉症的享楽



ーー厳密にいって欲動は自閉症的なものである。すなわち自己身体状態的なものを目指す運動である(参照)。

究極の自己身体とは母の身体をもひっくるめた身体である。それが冒頭の図である。

ジャック=アラン・ミレールは、自己身体の享楽は、自閉症的な地位にあるモノ(喪われた対象)にかかわるといっている。

なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、自己身体の享楽 la jouissance du corps propre の表現・変形 une expression, une transformationであり、閉じた、自閉症的地位にある享楽 la jouissance dans son statut autistique, fermé だからである、--ラカンは、対象aを、フロイトのモノ das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである。(J.-A. MILLER, Introduction à la lecture du Séminaire L’angoisse de Jacques Lacan, 2004)

ようするに自己身体の享楽=自閉症的享楽とは(すくなくとも究極的には)モノの享楽である。

モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴 Ⱥ]と等価である。(Jacques-Alain Miller、Les six paradigmes de la jouissance 1999)

ラカンにとってフロイトのモノとは何かについては、「穴の享楽 la jouissance du trou」の末尾に示したところだからここでは割愛。ま、ひとつだけ掲げておくよ、《モノは母である。das Ding, qui est la mère 》(S7 16 Décembre 1959)とね。このモノの享楽は、自己破壊欲動にかかわる。

自閉症と自己破壊で検索したらいくらでも出てくるよ。autism self destructive behaviorとね。この相を無視して自閉症なんて語ったらダメさ。

蚊居肢子はDSMの自閉症にはほとんど関知していない。あんなものをいつまでも相手にしている精神医学会こそ病気である。


話を戻せば、冒頭の図がみなさんの故郷の地位にあるんだ。あたりまえだろ?

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ないかい? きみにはこの「モノの享楽」が。これを感受してない人物ってのは、よほどのファルス人格だよ。それは「人はみな自閉症である」ですでに記した。

例えばほとんどの女性の場合、母との同一化 Mutteridentifizierung があるんだから、女性にとってのモノの享楽とは、容易に摂食障害や拒食症に向かいうる。

拒食症 anorexie mentaleとは、食べない ne mange pas のではない。そうではなく、無を食べる manger rien。(ラカン、S4, 22 Mai 1957)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)

エディプスの斜陽の時代、摂食障害やら拒食症、あるいは自傷行為、さらには本来的な自閉症が多くなるのは論理的必然だな。

これらとともに、「1968年後のレイシズム勃興予言」で記したように、レイシズムが猖獗するようになるのも論理的必然。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

エディプスの覆い(ファルスの覆い)が剥がれ落ち、底にある自閉症的なものが現れるということは、自己破壊欲動(そしてその投射あるいは防衛としての他者破壊欲動)が現れるということだ。

フロイト・ラカン理論の核心とは次の二文だ。これしかない。


マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)


ーーレイシズムとは自己破壊欲動の防衛としての他者破壊欲動の顕現の明らかな証拠である。

日本の安部極右政権だけじゃないのさ。たとえばかの自由と平等の国フランスでさえ、ルペン極右政権が今年第一党になっちまったじゃないか。

蚊居肢散人は、20世紀後半の史上最悪のイデオロギー、「アンチオイディプス」を実現すれば自由があるなどというあのとんでもイデオロギー、これに対して、この現在に至っても「まともな批判」もせずそのまま放っておいて涼しい顔をしているドゥルーズ学者という「教養ある馬鹿の集まり」ーー小泉義之やら檜垣立哉、國分功一郎やら千葉雅也やら、そしてその他のもろもろのいっそう小物たちーーあの種族の臭いがしただけで、即座に血圧が高騰して吐き気がするのである。

ああ、あれら《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄=菊池寛)。なぜ連中が知的絞首刑にならないのか不思議でならない。

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

もしかりにドゥルーズを評価するなら、1960年代の後半の仕事にしかない(参照:日本社交界のラカン派ドゥルーズ派諸君に命ずる!


固着によって強制された運動の機械
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復」 « automatisme » という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年


ーーここに自閉症的享楽があるのである。

ドゥルーズは1970年代に入って実にはしたない知的退行をしてしまったのである。



以上についての反論に対しては十全に闘う用意ができている。どこからでもかかってきたらよろしい、ドゥルーズ研究者諸君よ、マキャベリスト、あるいはニーチェリアンの蚊居肢散人の歓待を恐れることなかれ! 一瞬にして至高の享楽状態に至らしめて差し上げよう!

善とは何か? ――力の感情 Gefühl der Machを、力への意志 Willen zur Machtを、力自身 Macht selbst において高めるすべてのもの。

悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。

幸福とは何か? ――力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。

満足ではなくて、より以上の力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、ヴィルトゥVirtù、道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)