2019年8月5日月曜日

穴の享楽 la jouissance du trou

まずラカンのセミネール23「サントーム」から三つのボロメオの環の図である。




想像界と現実界との重なり箇所が、vrai trou(真の穴)とJȺとあり、その上にΣ(サントーム)がかぶさっていることに注目しておこう。

そしてラカンはこう言っている。

四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、…すなわち原抑圧 Urverdrängung (=固着)があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴 trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
JȺ⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreである。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)

ーーここで「JȺ=大他者の享楽はない」というときの大他者は、通念としての「大他者」ではない。これは最近になって、仏語圏と英語圏の代表的ラカン注釈者二人によってようやく明瞭に言われるようになったことで、多くのラカン研究者においてはいまだ認知されることが少ないが。

大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, 9/2/2011)
享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者はいま異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使い続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、最も根源的大他者としての自己身体である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。……

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009年)

もっともラカン自身、1967年に既にこう言っている。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

ポール・バーハウのいう《「大他者」の……新しい意味は、最も根源的大他者としての自己身体である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である》については、次のように引用しておこう。


われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(異者身体)(ラカン、S23、11 Mai 1976)
トラウマ psychische Trauma、ないしその記憶 Erinnerungは、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
語りとしての自己史に統合されない「異物」(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



ようするに「大他者の享楽 → 身体の享楽 → 異者身体の享楽」である。この《異者身体の享楽 joussance de corps étranger》は、リビドー固着による享楽(反復強迫)にかかわる(固着とは身体的なものが心的なものに移し変えられないことであり、これがエスあるいは現実界のなかに異物として居残ることを言う)。

分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)
この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

最晩年のフロイトはこのリビドーの固着のことをトラウマへの固着とも呼んでいる。

幼児期に起こる病因的トラウマ ätiologische Traumenは、…自己身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen であり、…疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」は、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ーー初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)とあることに注意しておこう。後述するが、これは事実上「去勢」のことである。そして自己身体の上の経験ともある。これがラカンによる「身体の出来事」としての症状(原症状=サントーム)である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (Miller, L'Être et l'Un- 30/03/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽(身体の出来事)はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

冒頭近くで引用したラカンが「サントームの根に原抑圧がある」と要約できることを言っている「原抑圧」とは、実質的にリビドー固着あるいは欲動の固着である。フロイト自身、最初に原抑圧概念を提出した論文でそう言っている。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


そして欲動の固着とは、ラカン派用語なら《享楽の固着 la fixation de jouissance》である。

享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…S2なきS1[S1 sans S2](=固着)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)

さらに補足的な引用を示そう。

まずラカンにとって穴とはトラウマのことであり、現実界である。

現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatisme を為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)

 「他の身体」とは「異者としての身体」と等価である。

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976) 

こうして後期ラカンーーアンコール(セミネール20)の最後の段階から始まるラカンにとっての女とは、異者としての身体=サントーム=リビドー固着(原抑圧)なのであり、ラカンが性別化の式で示した女とは異なるのである。ここに後期ラカンの転回がある(参照)。

最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

ーーこれについいて日本言論界ではいまだ殆ど誰もわかっていない。ラカン研究者プロパでさえそうであり、もちろん批評家のたぐいはこの現在に至るまで、アンコールの「女性の享楽」のままである。だが女性の享楽=身体の享楽であり、これが後期ラカンの享楽自体なのである。

もうすこしラカンの引用を続けよう。

身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この文脈のなかで、セミネール23の次の発言がある。

JȺ⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreである。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)

Ⱥとはもともと穴を示すマテームである。したがって JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)とは、なによりもまず原抑圧の穴の享楽なのである、つまり《穴の享楽 la jouissance du trou》もしくは《身体の穴の享楽 la jouissance du trou dans le corps》。

ちなみにフロイトは原抑圧を引力という言葉で表現している。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

そして引力とはエロスの吸引力である。

愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのか Warum Krieg?』1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

この文脈のなかでラカンは引力を穴と言い換えたのである。引力としての穴、すなわちエロスのブラックホールである。

穴とは去勢のことでもある。

われわれにとって享楽は去勢である。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。 pour nous la jouissance est la castration. Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

したがって穴の享楽とは《去勢の享楽 jouissance de la castration》とも言い換えうる。

だがなぜラカンはこの穴の享楽はないというのか、ーー《大他者(身体の穴)の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre》。

穴の享楽は、究極的には「去勢された・喪われた母なる自己身体」の享楽であり[参照]、それを真に享楽してしまったら死が訪れるからである。ようするに生きた存在には穴の享楽はない。穴のまわりの循環運動しかない。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre (=身体の享楽)について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

 ようするに究極のエロス、究極の享楽とは死である。

享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ーーマゾヒズムとは1933年のフロイトの定義において「自己破壊 Selbstdestruktion 欲動」である。そしてラカンの享楽自体、本来的には自己破壊欲動なのである。

享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

自己破壊欲動の根には、母胎もしくは母なる大地との融合運動があると捉えうる。くりかえせば、真に融合(=エロス)してしまえば主体の死である。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ある時期までのフロイトはこのように考えていなかった。1919年の『子供が叩かれる』までのフロイトは、サディズムが先行してあるものと考えていた。だがこれは1920年以降、徐々に転回した後期フロイトのマゾヒズムである。

なにはともあれ、自己破壊/他者破壊はこうである。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

人はときには凶暴な「他者破壊性」(攻撃欲動)のある人物は、その 根に強度の「自己破壊性」があるのではないか、と疑ったほうがよい。中井久夫によるヒトラー分析はそこにある。

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

日常的にも、外傷的出来事に侵入されたら、侵入し返すのが、ほとんどの人の常である。フロイトはこのメカニズムを「投射 Projektion」と呼んだ。内的脅威から逃れる方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することしかないのである。

わたくしはツイッターを眺めることはもはや稀になってしまったが、あの鳥語装置では攻撃欲動が覿面に発動している人物をときに見る。そのとき、この人には強い自己破壊傾向に苛まれているのではないだろうか、と疑ってみることこそ、真の知的振舞いである。

過去の性的虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)

この天秤的反転はなにも外傷だけにかかわらない。フロイトに《愛憎コンプレクス Liebe-Haß-Komplex》という概念があるが、たとえば愛の力が強い者は憎悪の力が強いのは当然ではなかろうか。あるいは憎む力が弱ければ、愛する力も弱いのではないかと。


以上、断言的に記したが、わたくしはこう考えているということであり、とくに後半箇所に記した後期ラカンの解釈における「身体の穴の享楽」、「去勢の享楽」等は、どのラカン派もまだ直接的にはこう言っていない。だがミレール、バーハウ、そしてここでは引用しなかったがコレット・ソレールの注釈から判断するかぎり、上のようになるだろうという意味である。

………

※付記

晩年のラカンには骨象aという表現があるが、これは身体の上への刻印(身体に突き刺さった骨)という意味であり、リビドー固着のことである。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)

ラカンは《最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである》と言っているが、最初に骨をめぐって語ったのは、セミネール9である。だがここではセミネール17での発言を示しておく。

私はフロイトのテキストから「唯一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)である。我々精神分析家を関心づける全ては、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17、11 Février 1970)
私が「徴 la marque」と呼ぶもの、「唯一の徴 trait unaire」…この唯一の徴 trait unaire の刻印 inscription とは、…死の徴(死に向かう徴付け marqué pour la mort) である。(Lacan, 10 Juin 1970)

ラカンは、唯一の徴 einziger Zugを、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」(原シニフィアン)と言い、「死に向かう徴付けmarqué pour la mort(死の徴)」とも言っている。

前期ラカンは、この原シニフィアンを母なるシニフィアンと呼んでいる。

象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

幼児の享楽の侵入の記念物、つまり身体から湧き起こる欲動蠢動を飼い馴らす最初の徴付けをするのは、ほとんどの場合、母もしくは母親役の人物である。したがってこの徴が、母なるシニフィアンと呼ばれるのは当然である。

こうして、穴の享楽とは、「母なるシニフィアンの享楽」とも言え、さらに「死の徴の享楽」とも言い換えうる。

この穴Ⱥの原飼い馴らしシニフィアン(母なるシニフィアン)は、S(Ⱥ) というマテームに相当する。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。Σ としてのS(Ⱥ) grand S de grand A barré comme sigmaである。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

したがって、論理的には、JȺ≒S (Ⱥ)=Σ=osbjet a =Fixierung なのである。

もっともJȺには享楽という語が入っている。これこそ穴Ⱥのシニフィアンの享楽であり、享楽回帰(反復強迫)であり、究極的には喪われた自己身体としての母なる身体への享楽である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この廃墟となった享楽 jouissance ruineuseへの探求の相がある。…

享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求 Bedürfnisses のあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給 Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)

この母なる自己身体を取り戻す運動は、また原ナルシシズムと呼ばれる。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・自己身体エロス(己自身のエロス érotique de soi-même)に取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)