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2019年9月17日火曜日

ネトサヨの攻撃性発露の原因

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。…私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーこの中井久夫の文をそのまま受け取れば、ネトウヨもネトサヨも社会的捌け口としてネットの書き込みを利用しているという点では(メカニズムとしては)同じだということになる(この文の前後は「踏み越えと踏みとどまり」を参照)。

もっとも「自己破壊性/他者破壊性」という語をそのまま受け取る必要はない。フロイトは、「マゾヒズム /サディズム」 = 「自己破壊性/他者破壊性」としつつ、同時に「マゾヒズム /サディズム」 =「受動性/能動性」ともしている。

したがってフロイトに依拠すれば、なんらかの受動的立場に置かれた人が「天秤の左右の皿」機制により、攻撃性発露をする傾向がある。







マゾヒズム /サディズム = 自己破壊性/他者破壊性
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
マゾヒズム /サディズム = 受動性/能動性
「女性性 Weiblichkeit/男性性 Männlichkeit」=「受動性 Passivität/能動性 Aktivität」(『性欲論三篇』摘要、1905年)
サディズムは男性性、マゾヒズムは女性性とより密接な関係がある。daß der Sadismus zur Männlichkeit, der Masochismus zur Weiblichkeit eine intimere Beziehung unterhält (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


事実、フロイトはこう記している。

容易に観察されるのは(……)心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児には能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。

それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、…厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。

小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。

医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復wiederholenするのである。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』1931年)

フロイトにとっては、一般に女らしさの発露と思われている女児の人形遊び自体が、能動性の発露である。

女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
母との同一化 Mutteridentifizierungは、母との結びつき Mutterbindung を押しのける ablösen 。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


この「受動性/能動性」の天秤の左右の皿関係について、ジジェクはゆかいな例をあげている。

ニューヨークには「私どもは奴隷です Slaves are us」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です Slavery is its own reward!」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)

ーーこれは上の例とは逆に、能動性から受動性への反転である。

話を戻して、ここまでの引用に当面準拠するなら、ネトウヨやらネトサヨやらのインターネットの書き込みに攻撃性の発散をしている人たちは、どんな形で受動的立場に置かれているのだろうという問いが生まれる。

わたくしの攻撃性発露の主因は、山の神のせいである・・・

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)

ほかにも人は場合によっては惚れらるすぎると、攻撃性の発露が生まれることもある。これはドストエフスキーの小説に頻繁に出現する現象である。そもそも「惚れられる」とは受動性なのだから。

マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である。masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)

ーーこの受動性がマゾヒズムの最も一般的な意味である。 フロイトが女性性という用語を使うときには、ほとんどの場合、生物学的女性を示しているのではないことに注意しよう。

(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)

原初の母子関係においては、母が能動的立場あるいは男性的立場であり、幼児はみな受動的立場あるいは女性的立場なのである。


さてネトウヨやらネトサヨやらの大半の方々には惚れられすぎたり、山の神からの災難を蒙ったりすることがないと仮定するなら、ほかに何があるんだろう?

ここでふたたびジジェクを引用しよう。

エティエンヌ・バリバールは、現在の生の特徴として、過剰で非機能的な残酷さの概念を提示する。残酷さ、その範囲は、「原理主義者」のレイシストあるいは宗教的殺戮者から、我々の大都会にて青少年やホームレスによる暴力の「無意味な senseless」暴発までに及ぶが、そこでの暴力は、「エスの悪 Id-Evil」と呼ばれる(フロイトのId [das Es, le Ça])に言及しつつ)。すなわち何の実利的・イデオロギー的理由もなしで行なわれる暴力である。

外国人についての、我々から仕事を盗むやら、我々の西洋的価値観への脅威やらの全ての話に騙されるべきではない。より綿密に吟味してみれば、すぐに明らかになるのは、この話は、むしろ上っ面の二次的合理化に過ぎないということだ。

スキンヘッドから究極的に得られる答えとは、外国人を殴ることは、彼らを気持ちよくさせるということであり、外国人の現前はスキンヘッドを苛々させるということだ。

我々がここで遭遇するのは、実に「エスの悪 Id-Evil」である。自我と享楽のあいだにある関係性における最も基本的な不均衡によって構造化され動機付けられた悪である。

このように「エスの悪」とは、原初に喪われた「欲望の対象-原因 object-cause of his desire」ーー 「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」ーーへの主体の関係性において、最も本源的な「短絡 short-circuit」を上演するのだ。「他者」(ユダヤ人、日本人、アフリカ人、トルコ人)の中にあって我々を「悩ます」ことは、この「他者」が対象への特権的な関係性を享楽しているように見えることだ。その「他者」は、対象-宝物を所有していたり、我々から掠め取ったり(その理由で、我々はそれを所有しえない)、あるいは対象の我々の所有を脅かそうとするように見えてしまうのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

このところネトサヨのみなさんの鳥語をいくらか覗いたので、彼らに焦点を絞って記述させてもらうことにするが、 おそらくジジェクのいうこういう機制が働いている方がいるのだろうーー、

「他者」は、対象-宝物を所有していたり、我々から掠め取ったり(その理由で、我々はそれを所有しえない)、あるいは宝物の所有を脅かそうとするように見えてしまうのだ。

たとえば安倍政権は、あなたがたから宝物を掠め取ったり、宝物の所有を脅かそうとするように見えるんだろう。これはある程度は「真実」だろう。だがたとえば台風災害における千葉県知事の初動の遅れをほとんど難詰せず、安倍ばかり責めているのはやはり病気である。本来、災害の陣頭指揮をとるのは都道府県であり、その知事であるだろうから。

ここで、病的に嫉妬深い夫についてラカンが述べたことを思い出してみればよい。彼が自分の嫉妬の根拠として引き合いに出す事実がすべて真実だったとしても、つまり妻が本当に他の男たちと浮気をしていたとしても、彼の嫉妬が病的であり、妄想の産物であるという事実は、それによって微塵も変わらないとした。 …したがって、われわれはユダヤ人差別に対して、「ユダヤ人は本当はそんなんじゃない」と答えるのではなく、「ユダヤ人に対する偏見は実際のユダヤ人とはなんの関係もない。イデオロギー的なユダヤ人像は、われわれ自身のイデオロギー体系の綻びを繕うためのものである」と答えるべきなのである。(ジジェク『暴力』2010年)

というわけで、本来の攻撃性の元をはやく認知することをお勧めする。現在、その代表的なものは「新自由主義イデオロギー」に受動的立場に置かれていることであるとわたくしは考えているが、これがネトサヨの大半の方々(あるいはネトウヨの方もふくめて)に当てはまるとは断言するつもりはない。


今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
(現在)人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)


ラカンはこの市場原理主義の時代、富めるものも貧しいものもみなプロレタリアだといっている。

社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire,(LACAN La troisième 1-11-1974 )


すなわち、人はみな資本の欲動に受動的立場に置かれているのである。もっともこの資本の欲動をそのまま資本主義と捉えず、新自由主義と捉える立場をわたくしはとる。

我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。…

ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全ての態度に共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、What About Me? 2014年)

くりかえせばもちろんこれだけではない。より卑近な事例なら、少子高齢化社会における避けがたい負担増福祉減という必ず訪れる近未来に苛立ったり、あるいはさらに迫りくる財政破綻の恐れ、既存の社会システムの崩壊等を予感しての攻撃性発露という方もいるのかもしれない。