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2019年9月7日土曜日

踏み越えと踏みとどまり

以下、中井久夫の「踏み越え」論を引用するが、「踏み越え」とは "transgression" の訳だとされている。

ところでラカンには同じ " transgression" を使って、次のような発言がある。

享楽の侵犯 la jouissance de la transgression(ラカン, S7, 30 Mars 1960)
人は侵犯などしない!on ne transgresse rien ! …

享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である。Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption(ラカン、S17, 26 Novembre 1969)

フロイトの「文化共同体病理学」を引き継ぐラカンは、1960年から1969年のあいだにその思考は「侵犯から侵入」に変わった。

その変貌は、「父の蒸発」あるいは「エディプスの失墜」にかかわる。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

「享楽せよ Jouis ! 」とあるが、ラカンにとって《享楽は現実界 la jouissance c'est du Réel》(S23, 1976)であり、現実界とは穴=トラウマである、《現実界は …穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す》(S21, 1974)

享楽自体、穴を為すものであり、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

今うえに記してきた観点から、ラカンのボロメオの環の図のひとつをみてみよう。





二つの穴が示されている。これが2010年前後から臨床ラカン派で強調されるようになった「二つの現実界」であり、つまりは「二つの享楽」である。

象徴秩序の失墜後の世界は、象徴的法の越境としての享楽ではなく、エス(現実界)からの越境としての享楽が主役になった。

前者(象徴的法の越境)がラカンにとっての「侵犯 transgression」であり、後者(現実界からの越境)が「侵入 irruption」である。侵犯も侵入もどちらもブレイクスルーではある。

したがってーーこれは誰もそう示している人に出会ったことがないがーー、ボロメオの環で図示すればこうなる。




このブレイクスルーは、フロイトならその代表的な用語が "Durchbruch"である。フロイトの主要論文をざっと眺めたら、フロイトはこの語を「侵犯」の意味でも「侵入」の意味でも使っている。

たとえば以下の文は、「侵入」と訳すべき "Durchbruch" である。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後期抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 「抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung」「侵入 Durchbruch」「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着点 Stelle der Fixierung」から始まる。そしてリビドー発展の固着点への退行 Regression der Libidoentwicklung を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)


次の文は「侵略」と訳すべき "Durchbruch" である。

自我に課せられるあらゆる禁止や制限にあてはまることであるが、その禁制は周期的に侵略される periodische Durchbruch der Verbote Regelのが常である。つまりそれは祭の制度に示されているとおりである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)


次の三つの文は侵入とも侵略とも訳せる "Durchbruch" であり、「侵略侵入」とした。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を侵略侵入するdurchbrechen ほどの強力な興奮Erregungenを、われわれは外傷性 traumatische のものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。

これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektionである。(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)
一般的な外傷神経症を刺激保護壁の甚だしい侵略侵入Durchbruchs の結果と見なしてよいだろう。Ich glaube, man darf den Versuch wagen, die gemeine traumatische Neurose als die Folge eines ausgiebigen Durchbruchs des Reizschutzes aufzufassen.(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)
過剰な興奮強度による刺激保護壁の侵略侵入 die übergroße Stärke der Erregung und der Durchbruch des Reizschutzes,(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)



前置きが長くなったが、中井久夫の踏み越え論は越境論であり、中井久夫の「踏み越え」とは、侵犯でもあり侵入でもある。

以下にやや長い引用をするが、いま記してたきことを読み取っていただくための長さである。


■中井久夫「「踏み越え」について」2003年

「はじめに」

「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。

その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。

今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。さらに「踏み越え」がプラスの意味を持ってきた。「改革」「ビッグバン」「IT革命」である。これらは長期的には有効性が期待値より低いおそれがあるのだが、そのことは軽視されている。フランス、ロシアの二大革命の末路から人は多くを学ばない。ロシア革命を否定してフランス革命が無傷で済むだろうか。革命の血を血で洗う中からナポレオンが出てきて、革命を外征にかえた。どれだけのフランス人、欧州人が非命に倒れたか。私の精神的な師の一人、アンリ・エランベルジェ先生が「個々の戦争犯罪だけでなく戦争をも犯罪学の対象としなければならない」といわれるのももっともである。幸か不幸か私は戦争の世紀である二十世紀の一九三四年に生を享けた。当時、一九○四年から一九〇五年の日露戦争は「このあいだの戦争」であった。戦争参加者はまだ四十歳代から六十歳代だったのである。

(……)

行動化の効用

事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。


行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。

(……)

「踏み越えによる犯罪」

すべての犯罪が定義上「踏み越え」によるものであるとはいえ、最近の犯罪あるいは非行において、事故学的犯罪と対照的に、「踏み越え」の比重が非常に大きくなってきたという仮定のもとに考察を進める。

「踏み越え」をやさしくする条件を挙げてみよう。

(1)「踏み越え」に対する倫理的な障壁が低くなっていること。例えば、万引きに窃盗という認識、ひったくりに強盗という認識がなく、それに相当する倫理的障壁がない(逆に「立ち小便」に対する心理的障壁は五十年前にはない気に等しかったが、現在では高くなっている)。倫理的障壁はほとんど生理的であって、立ち小便は行おうとしてもなかなか尿が出ないのが普通である。強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えてならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては交感神経系優位性が副交感神経系優位性と急速に交代しなければならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか。

(2) 倫理には当然社会的側面もある。尊敬できる家族、先人、友人などが存在するか否かが大きい。家族などが例えば暴力などの侵犯への「踏み越え」を実演するなかで育つことは当然侵犯への敷居を低くする。また、自殺や離婚は、通常、踏み越えに思案を要するものの代表であるが、身近に自殺、離婚の例がある場合、行き詰まりの解決法として思いつきやすく選ばれる確率が高くなる。犯罪もまた同様。

(3) 問題解決への選択肢が少ないこと。イメージ化がうまくできないこと。無人島に行ったら何を持ってゆき、何をするかという「無人島物語」では、非行少年や家庭内暴力少年は思いつくものが少ない傾向があることを私は経験している。知的に普通と思われる少年なのに島ですると思いつくことが瑣末的なこと一つであった例がある。なお、私の経験では、箱庭で全くの模倣テーマ、たとえば「宝塚遊園地」を造るのは非行少年、特に嗜癖少年であった。これは極端例であるが、選択肢の少なさはかなり一般にいえるそうである(東京家裁主任調査官・藤川洋子による)。選択肢がわずかしかない人ほど、踏み越えが簡単であるはずである。手近な選択である嗜癖にもなりやすいだろう。

(4) 侵犯が見逃され、放置され、処罰されないこと。犯罪の最大の防止策は速やかな発見と検挙である。ニューヨークの地下鉄でも、わが国の大学でも、落書きをただちに消すことによって、落書きだけでなく、さまざまな侵犯の低下を見みている。

(5) 「踏み越え」を容易にする手段が卑近なところにあること。米国の殺人率の多さは銃規制がほとんど行われていないことによる。わが国の場合、実に卑近なことであるが、包丁が鋭利になったことがあると私は思う。 第二次大戦前の、拳銃による政治家暗殺も、ほとんどすべて銃ごと体当たりをすることによったものである。その伝統は包丁にそのまま継がれている。旧軍では、日本人はピストルの速距離射撃が下手といわれてきた。一九九五年の国松警察庁長官狙撃(四発全弾命中)は例外中の例外である。

(6)「踏み越え」を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うところである。一般兵士の「発砲率」は国によらず十五ー二十パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において五十五パーセント、ベトナム戦争において実に九十五パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。わが国では、会社、官庁における不正の黙認が挙げられようか。

わが国では、現在、当人の書面による承諾なくして事実上誰にでも生命保険をかけられるという制度的欠陥も、多くの踏み越えを容易にしている。

(7) 「踏み越え」を容易にするイデオロギーの存在。いわゆる大義が代表的なものであるが、必ずしも直接の踏み越えに関するものでなくてもよい。一般に二十世紀においては、マルロー、ヘミングウェイ、サン=テグジュベリら、「行動」を「思考」や「葛藤」よりも優位に置く作家の影響力が強くなり、登山、航海において不可能とされたことが次々に実現していった。ちなみにマルローの出世作『王道』は、カンボジャの文化遺産を盗みにゆく話である。

行動化は、自分に代ってやってくれる代理者によってもある程度満足される。サッカーや野球で選手やチームに同一化することによって、日常の心配や葛藤は棚上げにできる。この場合も含めて、行動化は、究極的に言語化・イメージ化できないものが多い。犯罪とは限らない。スポーツはもちろん、食や性でも言語を超えた部分がある。というか、言語、イメージを越えないと、何か欠けたものがあると感じられる。一般に言葉だけでは飢餓感が残る。謝罪の例がそれである。状況だけが言葉の不足感を救う。

(8) 行動をともにする仲間の存在。少年強盗の統計上の最近の増加には、集団でのひったくり、かつあげによる分が、相当に含まれている。一件七、八人ということが少なくない。

(9) ヴァーチャル・リアリティによる「踏み越え」の見聞と実体験。生まれた時すでにテレビが存在した世代の心理には、私の世代の心理と違う何かが感じられる。しかし、テレビは家族などの集団で見て対象化・客観化が可能である。テレビゲームを初めとするヴァーチャル・リアリティは孤独のなかで行われ、場の中に入り込み、かつ自分が不利な時にはリセットが可能である。

(10) 抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。

(11) うかうかとでも、とにかく「やってしまった」という事実が、その後の踏み越えをぐっとやさしくすることは多いだろう。「どうせおいらは」というわけである。「濡れないうちは露をも避けるが、濡れてしまえば川の中にでもずかずか入ってゆく」という古くからの喩えは、非常に理解しやすい心理である。

(12) 自尊心の低さと弱さ。例えば、忍ぶ恋がストーカーになり下がる過程のどこかで、自尊心がぐっと低下する体験があるのではないか。もっとも、ストーカーには、現実の不可能を強引に擬似的可能にしようという点で、「現実の不可能を非現実の可能にする」という妄想と紙一重のところがある。

ストーカーに限らない。どういう人にせよ、プライドのない人間ほど始末におえない者はない。精神科医は、患者の自尊心を大切に守る必要がある。個々の病院によって大きな差があるが、精神科病院が自尊心を失う場になってはならないと思う。さまざまな矯正施設においても重要なことである。

(13)被害者がはっきりしない場合。収賄も、遠距離砲撃の場合も、これである。陸軍に比べて海軍がスマートに見えるのは殺戮が見えないからである。

変数は以上の悪魔の一ダース(十三) に尽きないであろう。また、今後、踏み越えをやさしくする条件が増加するおそれがあり、精神医学、心理学、犯罪学の大きな主題となってゆく可能性が少なくないと私は思う。

(……)

踏み越えと踏みとどまりの非対称性

不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。

これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。テレビの番組は、その反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。(聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。

サリヴァンは、 前青春期体験を、これらすべてに括抗する人間的体験とした。今、前青春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。

ウィニコットは、子どもの憎たらしさに耐えて、将来報いられると思えるのを「ほどよく良い母親」とした。大平健によれば、今の「やさしさ」は「何もしないという思いやり」で、侵入されたくない気持ちと対になっている。子どもは「やさしい」ばかりでなく、すごい泣き声を挙げて侵入する「やさしくない」存在でもある。その時の顔はいかにも憎々しい。昔の子守歌にも「寝る子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ」とあるとおりである。ウィニコットは、それを否認せずにわが子を世話できる母親をよしとしているのだが、今、いかなる意味でも「将来報いられる」期待をいうことができるだろうか。
「自己コントロール」について

私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。

自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。

もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーとてもすぐれた越境論である。

日本のラカン派で最近言われている「露出」やら「他者の享楽への嫉妬」(参照)やらだけでは、たとえば日本の嫌韓猖獗現象の分析はしがたい。こういった中井久夫のような観点にも大いに依拠すべきではないだろうか・

ここでは数箇所に現れる「自己破壊」という言葉のみに注目する。

抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

これこそ超自我の声の命令である。たとえば、現在大手メディアにさえみられる嫌韓示威はこの機制が働いているということはないだろうか? フロイトもラカンも「超自我の内なる声」という要約できることを言っている。他方、自我理想あるいは父の名は原則的に「眼差し」である。あなたを恥じ入らせる眼差し。これがきわめて劣化してしまったのが父の失墜の時代である。

もはやどんな恥もない Il n'y a plus de honte …

下品であればあるほど巧くいくよ plus vous serez ignoble mieux ça ira (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

そして恥のない社会では超自我の《内なる声 Stimme in unserem Innern geben》(フロイト)、《内なる命令 intime impératif》(ラカン)が渦巻く。

超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン、S20、21 Novembre 1972)

ラカンにとって享楽とはなによりもまずマゾヒズム、原マゾヒズムである。

享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance (ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

そしてこのマゾヒズム(原マゾヒズム)とは、まさに中井久夫のいう自己破壊欲動である。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

ここに見られるように1920年以降のフロイトには転回があり、1919年の『子供が叩かれる』まではまだサディズムがマゾヒズムに先行してあると考えていたフロイトとは異なって、後期フロイトにおいては自己破壊欲動が他者破壊欲動に先行してある。他者破壊欲動とは自己破壊欲動の投射なのである(参照)。




中井久夫は《解離された自己破壊衝動の囁き》と言っている。中井久夫にとって解離とは、排除のことである。

解離していたものの意識への一挙奔入(⋯⋯)。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)
サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

すなわち中井久夫の言う《解離された自己破壊衝動》は「享楽の排除」であり、その排除された享楽の外立である。

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

ーー排除あるいは外立とは二重の意味をもっており、第一の意味として「外に放り投げる Verwerfung(排除)」でありながら、さらに外に放り投げられたものは、回帰するというもう一つの意味がある。排除という用語を理解する上ではむしろ後者のほうが重要である。中井久夫が《解離していたものの意識への一挙奔入》と言っているのはこの後者の意味である。

これは、ラカンの別の言い方なら「享楽回帰」である。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance (ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここでもうひとつ、中井久夫からの自己破壊性のパラグラフである。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。(……)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

《四季や祭りや家庭の祝いや供養》としての象徴秩序の崩壊があり、象徴的法(父なる超自我)に対する越境としての享楽の放出が難しくなったのが現在である。破壊欲動の放出は《インターネットの書き込みに集中している》とあるのもとても示唆的であるが、これについてはいまは触れないままにしておく。

ここでもう一度ラカンの考え方を確認しておこう。

父なる超自我の底には母なる超自我がある。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

エディプスなき時代、この母なる超自我が露出するのである。そしてこの母なる超自我が現在ラカン派でいう超自我自体である。父なる超自我とはフロイトの自我理想、ラカンの父の名である(参照)。




超自我とはエスの境界表象であり、欲動の奔馬を飼い馴らす最初の鞍である。だが原防衛機能としてのこの超自我では、充分な飼い馴らしはなされない。残滓がある。

それがフロイトが次の文で言っていることである。

(超自我による原抑圧は)すべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

「飼い馴らし」という語が直接に現れる二文も引用しておこう。

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章)
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

くり返せば、エスの奔馬の原飼い馴らし機能をもつのが超自我≒原抑圧=固着(享楽の固着 fixation de jouissance [参照」)であり、その弱い飼い馴らし機能しかない超自我(母なる超自我)をさらに飼い馴らすのが、自我理想=父の名=父なる超自我=ファルスである。

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)


そして残滓のほうは次の通り。

不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)

これらはラカンのボロメオの環を使ってフロイト用語で示せばほぼこうなる。




象徴秩序の失墜の時代、ファルスによる飼い馴らし機能は弱体化し、超自我=母なる超自我=自己破壊欲動が侵入する宿命に現在はある。

 エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

これに対応するためにはどうしたらよいのか。

その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》、これこそラカンが次の文で言っている真意である。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)

かつての支配の論理に陥り勝ちな「父の名」ではなく、父の機能としての父の名を使用する必要がある、とラカンは言っている。

フロイトの『集団心理学と自我の分析』の図を簡略化して、「権威」→「権威の崩壊」を示せば次のとおり(参照)。





自我がかりに三者以上であっても、右図の様相を二者関係的という。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)


象徴的権威の蒸発によって、現在は二者関係的社会である。したがって自己破壊欲動ー他者破壊欲動が飼い馴らされないままなのである。

もっとも《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》を取り戻すために、いかにすべきかの具体的な答えはおそらく現在、いまだ誰にもない難題のままである。





良性の権威とは柄谷行人のいう「帝国の原理」と機能としては相同的である。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)



………

※参照:「父なき時代のために

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)
人間は「主人」(父)が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" — Part II、19.01.2018)