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2019年9月1日日曜日

なぜレイシズムが猖獗するようになったのか

まずアーレントである。

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

次にノーベル文学賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンだったドリス・レッシングの『自伝』からである。

子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。

Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore. (Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)

ようするに1968年の学園紛争後、権威は消滅したため、欧米でもいじめが猖獗するようになったのである。

父の蒸発 évaporation du père (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

したがってラカンは《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)をした。

いじめもレイシズムも基本的には権力欲の問題である。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)

この権力欲は権威が失墜したとき際立って露になる。

重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

現在、明らかなことは、第三者においてうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「社会的結びつきと権威 Social bond and authority」1999)

このところ何度か示しているフロイトの集団心理学の図を掲げよう。





原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)

これは権威としての外的対象を自我理想として取り込み、各自我はその権威を通してたがいに同一化するということである。権威が消滅すれば、各自我は二者関係的になり「いじめ」が始まる。

簡略してしめせば次のとおり。




自我がかりに三者以上であっても、右図の様相を二者関係的という。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

これらは、精神分析的知においてフロイトが創始した「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」の思考のもと、かなり以前から理論的にこう説明されている話であり、現在のレイシズム社会に触れるなら必ず知っておくべき内容である。

現在の新自由主義社会とは、二者関係的社会である。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)
(現在)人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016)

そもそも資本の論理自体が差異の論理であり、ここから差別の論理には半歩しかない。

資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談、1990)

ラカン派も柄谷も支配の論理に陥りがちな権威の復活を願っているわけではない。それについては、「ナイーヴなマルチチュード概念のお釈迦」を参照されたし。

なお権威が失墜した社会で互いの「いじめあい」がおこらないようにするためには次のような構造が必要である。




理念 führende Idee がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)