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2019年9月18日水曜日

四つの言説基盤図変奏

ラカンの「四つの言説 quatre discours」とは、もともと最晩年のフロイトが示した「三つの不可能な仕事」(支配、教育、分析)に、フロイトが示さなかった最も基本的な「不可能な仕事=欲望(ヒステリー)」をつけ加えたものである。

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンの言説とは「社会的結びつき lien social」ということで、これまたフロイトの「愛の結びつき Liebesbeziehungen」(エロス的結びつき)から来ている(ジャック=アラン・ミレールによる)。

われわれは愛の結びつき Liebesbeziehungen(あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき Gefühlsbindungen)が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

「集団精神」とあるが、集団は二人から始まる。つまり、ラカンの言説理論は人の結びつきのあり方を思考したものとしてある。





ラカンの四つの言説のベースとなる基盤図はいくつかのヴァリエーションがある。 

ラカン自身が示したのは主にこの四つの図である。





左上には Agent やら semblant やら desir やらがあるが、Agent(代理人)とはsemblant(見せかけ)、つまり仮象の主体である。この仮象の主体とは、言語を使用することによって身体から切り離されてしまった主体ということでもあり、この主体はみなシニフィアンの主体、欲望の主体である。

見せかけ(仮象)、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


四つの言説には、主人の言説、大学人の言説、ヒステリーの言説、分析家の言説と、それにのちに付け加えられた資本の言説があり、一般にはヒステリーの言説が欲望の言説だとされるが、本来、どの言説だってそのベースは仮象の主体=欲望の主体であることには変わりがない。

この欲望の主体は、別名「幻想の主体」と呼ばれる。

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)

最晩年のラカンが「人はみな妄想する」といったことに依拠すれば、欲望の主体は「妄想の主体」である。

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

もっとも妄想という用語には注意しなければならない。

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

究極的には妄想とは、人がみな原初にもつ現実界という「構造的トラウマ」に対する防衛である。

我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。Je considère que […]le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)


………

ところで左下の真理とはいったいなんなのか?


真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

左下の真理は「嘘としての真理」ではない。そうではなく、話す身体である。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

この話す身体が「身体の実体」である。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

セミネール20「アンコール」以後のラカンに依拠すれば、見せかけの底部にある真理とは、話す身体であり、性的非関係と捉えるべきである。




すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)


ところでジャック=アラン・ミレールは四つの言説理論には触れないまま次の図を示している。



いままで何度か示してきたが、この図を援用して言説基盤図を次のように書き直すことを蚊居肢子は好む。





この図こそ享楽の漂流図である。

私は欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

左下の「非関係 non-rapport 」は穴としてもよい。

穴 trou は、非関係 non-rapport によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

あるいは穴ウマだってよろしい。

現実界は…穴ウマ=トラウマ troumatismeを為す。(ラカン, S21, 19 Février 1974)

他方、右下の剰余享楽は穴埋めである。

対象aは、喪失・享楽の控除の効果[l'effet de perte, le moins-de-jouir]と、その喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片の効果[l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent morcellement des plus de jouir qui le compensent]の両方に刻印inscritされる。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めを理解するための最も基本的方法である。Ce petit a sur moins phi , c'est la façon la plus élémentaire de comprendre cette conjugaison que j'évoquais, la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)


穴と穴埋め用語を使って日本語で図示すればこうなる。







ここでの身体=穴とは「欲動の現実界」のことである。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


これは「欲動の身体 le corps pulsionnel」と言い換えうる。

欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)



ーーこの図には「大他者の享楽はない」だってある。

JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)

おわかりだろうか? これがすべての人間の愛のつながり、あるいは社会的つながりの図である。ここから逃れうる主体はない。

身体は穴とは、身体は去勢されてるという意味であり、この去勢は象徴的去勢ではない。そうではなく、究極的には出産外傷による原去勢である(参照:傷ついたエロス=傷ついた享楽)。