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2019年11月27日水曜日

遠くからやってくればくるほど、近くからわたしに触れる


遠くからやってくればくるほど、近くから私に触れる
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)
死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。

音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)



(私の魂)といふことは言へない
しかも(私の魂)は記憶する


耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌う

私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ


遠くからやってくるもののみが魂という楽器をかきならす
S氏によれば、詩人は魂の自発性を信じず、いわば楽器のような魂を外部から訪ずれたものが鳴らすのだと考えていたという。寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ。外部にある耀かしい日たち、かれらが (私の魂)を訪ずれて、魂という楽器を鳴らすように、私のけふの日を歌ふのだ。それ自体の、中心的な力としての歌を自発して歌いいずる(私の魂)というものはない。しかしいったん楽器として鳴り響かせた歌を(私の魂)は記憶する…(大江健三郎「火をめぐらす鳥」)
葬儀に帰られたKさんと総領事が、伊東静雄の『鶯』という詩をめぐって話していられた。それを脇で聞いて、私も読んでみる気になったのです。〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉

天上であれ、森の高みであれ、人間世界を越えた所から降りてきたものが、私たちの魂を楽器のように鳴らす。私の魂は記憶する。それが魂による創造だ、ということのようでした。いま思えば、夢についてさらにこれは真実ではないでしょうか?

私の魂が本当に独創的なことを創造しうる、というのではない。しかし私たちを越えた高みから夢が舞いおりて、私の魂を楽器のようにかきならす。その歌を私の魂は記憶する。初めそれは明確な意味とともにあるが、しだいに理解したことは稀薄になってゆく。しかしその影響のなかで、この世界に私たちは生きている……  すべて夢の力はこのように働くのではないでしょうか? ………(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部)
我々の古代人は、近代に於いて考へられた様に、たましひは、肉體内に常在して居るものだとは思って居なかった様である。少なくとも肉體は、たましひの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事実だと言へる。・・・

人間のたましひは、いつでも、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落としてしまふ事になる。(折口信夫「原始信仰」)