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2019年11月28日木曜日

ジジェクの誤謬

ボクは長いあいだのジジェクファンだし、多くのことを彼から学んだけれどさ。
でもジジェクの現実界ってのは、「「二つの現実界」についての当面の結論」で記したけれど、間違っているんだな、これは2016年ごろからそう疑いだして、いまはほぼ確信的にそう思っている。

間違っているというか、アンコールまでのラカンの現実界であり、ラカンがそれ以後転回した真の現実界ではないってことだ。

ジジェクの現実界は、左側の現実界でしかない(最下段にミレールの注釈を貼り付けたが、右側が真の現実界)。

現実界についての相反する二種類の定義
私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
症状は現実界について書かれことを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
不可能性:書かれことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)         
現実界は書かれことを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
書かれことを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)


たとえばサントームのセミネールに次のボロメオの環がある。




ここには二つの穴trouがあるけれど、穴とはラカンの定義上、現実界のこと。

現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

ジジェクの現実界は象徴界のなかの穴でしかない。

現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

それは次の文が瞭然と示している。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。(…)現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

しかし、後期ラカンの現実界とは、想像界と現実界の重なり目にある真の穴(人が感知しうる現実界という意味での現実界)。文献としては、たとえば「トラウマは書かれることを止めない」に示してある。

一言でいえば、後期ラカンの現実界は、フロイトのいう「無意識のエスの反復強迫Wiederholungszwang des unbewußten Es 」(1926)のこと→「後期ラカンの鍵」。

フロイト自身の直接的表現なら、次の文。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

このリアルな無意識は、リビドー固着によってエスのなかに置き残された身体的なものという意味であり、これを別名「異物」と呼び、たえまない反復強迫を起こす(参照:なんでも穴である)。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


ま、これらは人がジジェクファンであればあるほどいっそう、はやいところ認知しなくちゃダメな話だと思うね。

そもそもジジェクのあのたえまない著作活動の根は、無意識のエスの反復強迫にあるんじゃないかな、これは憶測だけれどボクはそう思っているね。


……

ラカンにとって時に確かなのは、分析セッションは面会予約に還元されるということである。(ジャック=アラン・ミレール、The Axiom of the Fantasm)

ーーまさか! と普通は思うだろう、だがジジェクがこれを「証明」している。

私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。

ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?

そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)

ジジェクを読む上で、愛の外傷性記憶の反復強迫を外しては何も読んだことにならないと思うな。それと、ボクの気づいた範囲でも、サラエヴォの外傷記憶がもう一つの彼の核心だよ。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。 (ジジェク『快楽の転移』)

これはジジェクがどんな状況で、どんな事態に遭遇したとき、ひどくアツくなるか、からの憶測だけれどね。

なにはともあれボクは政治的には、そして彼のマルクス解釈については、いまもって彼に大きな信頼を寄せている。以前は全体としては80パーセントぐらいの信頼があったけれど、いまは、ま、60パーセント、いやこれではすくなすぎる、65パーセントぐらいの信頼になったってところだな。

次はジジェクが何度か引用しているラカンの発言だ。

真理の愛とは、弱さへの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さへの愛、真理が隠していたものへの愛、去勢の愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

彼の象徴界へのヘバリツキは、ジジェクの弱さだよ。マルキシストとして世界の座標軸ががなんとか変わらないか、と常に祈願している彼の立場を信頼して、そうあるジジェクへ「去勢の愛」をささげるね。