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2019年11月30日土曜日

リビドーの三界

ラカン語彙を扱う場合とくに注意しなければならないのは、重要な語彙には三界(現実界、想像界、象徴界)があって、どのレベルでラカンが語っているかを見極めなければならないことである。そうしないと、ある場合と別の場合は、同じ語を使いつつまったく逆のことを発言していて支離滅裂にみえかねない。たとえば去勢などという語はもっとも注意しなくてはならない。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

だがいまは去勢の話はしない、ここではリビドーもしくは愛の話である(そもそもリビドー自体、「去勢=身体の穴」にかかわるのだが、ここではそういったややこしい話はしないでおく)。

ジャック=アラン・ミレールは2009年のセミネールで、リビドーについてこう言っている。

欲望と享楽にかんして…単純化すれば、欲望としてのリビドー [libido comme désir]の解釈ーーネガ解釈ーーと享楽によるリビドー[libido par la jouissance]の解釈ーーポジ解釈ーーを言いうる。(Jacques-Alain Miller, L'Orientation lacanienne, Choses de finesse en psychanalyse XVII, 13 mai 2009)

これは単純化とあるように、現実界と象徴界の対比としてのリビドーを語っている。

他方、1995年のセミネールにおいては三界レベルでのリビドーを示している。

ナルシシズムと対象関係のあいだの裏表としてのリビドー (想像界)。

欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー (象徴界)。

享楽によるリビドー (現実界)。(J.-A. Miller, The Lacanian orientation, “Silet”, 15th March 1995、摘要訳)

これを仮にボロメオの環に当てはめれば、次のようになる(実際は三つの環の重なり目を考慮しなければならず、それぞれの語彙群はこんな単純なものではないが、ここでは簡略化モデルである)。




ーーリビドーとはフロイトの定義においては、エロスエネルギーであり、愛の力である。

すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

そしてこの本来的なリビドーが享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてもうひとつ、享楽=リビドー =愛=エロスの最も基本的な定義は融合だが、究極の融合とは死である(参照:エロスは死である)。

享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)

ところでさきほど仮においたボロメオの環の語彙群自体、誤解をまねきやすいが、現実界の審級にある享楽とはフロイトの「自体性愛(自己身体の享楽・自閉的享楽)、原ナルシシズム、原マゾヒズム(=死の欲動)」等のことでもある。


享楽基本語彙群
自体性愛
auto-érotisme
原ナルシシズム
narcissisme primaire
自己身体の享楽
jouissance du corps propre
自閉的享楽
jouissance autiste
女性の享楽
jouissance féminine 
原マゾヒズム  
masochisme primordial



では想像界におけるナルシシズムはなにかということになる。これはフロイト語彙なら二次ナルシシズムである。



われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer (二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

この自我のナルシシズムが想像界の審級にある愛である。

愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《私マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)

基本的にはこのイマジネールな愛が介入して、享楽は欲望になる、《愛のみが享楽を欲望へと移行させる(下降させてくれる)。Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir  》(Lacan, S10, 13 Mars 1963)

ーーラカン派において欲望とは享楽にたいする防衛ということである。


他方、ラカンが《私は自分の身体しか愛さない》というとき、これがフロイトの自体性愛(原ナルシシズム)であり、現実界の審級にある。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

自分の身体しか愛さないという享楽=自体性愛なのだから、他者との関係性としての《愛は不可能である。l'amour soit impossible 》(ラカン、S20, 13 Mars 1973)ということになる。

したがって性関係はない。


自体性愛=享楽自体=女性の享楽=性関係はない
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
享楽は関係性を構築しない (「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」)。これは現実界的条件である。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


この「性関係はない」という現実界に対する防衛が、二次ナルシシズムであり欲望である。

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴=トラウマ(troumatisme )」を為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
我々の言説(社会的つながり lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)

………

以下、フロイトのリビドー定義文のひとつを掲げておこう。ここには現実界、想像界、象徴界に分けて捉えると、いっそう明瞭化される語彙群がたくさんある。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)