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2019年11月8日金曜日

女というおとしモノ

なんでも穴である」の補遺である。

まず先に前段としていくつかの文を列挙する。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)

ーー《モノdas Ding (la Chose)=外密 extimité==異者としての身体 corps étranger》(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
対象a は外密である。l'objet(a) est extime(ラカン, S16, 26 Mars 1969)

これらによって示したいのは、モノ=異物(異者としての身体)=対象a(喪われた対象)である。

……

さてスタートである。

ラカンのセミネール16(1969年)には次の図がある。




ラカンはこう言っている。

女というものは空集合∅である。La femme c'est… c'est un ensemble vide, (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

代入してみよう。




この女、穴の場には、冒頭に示したようにモノ、異物(異者としての身体)も代入しうる。さらに「なんでも穴である」で示したようにこの女、この穴には別の語彙群も代入できる。


現実界は穴=トラウマを為す
人はみな穴がある
欲動の現実界は穴
原抑圧は穴
サントームは穴の名
ひとりの女は穴の名
享楽は穴を為す
享楽の穴
固着は穴を為す
去勢は穴
主体は穴
身体は穴
大他者は穴
母は原穴の名
一般化排除の穴
女性のシニフィアンの排除の穴
対象aは穴


最も簡潔にいえば、これらは「1と身体がある Il y a le Un et le corps」でよい。

すなわちこうである。




これがシニフィアンを使って生きている人間の症状である。「1」とはフロイトのいう「語表象 Wortvorstellung」(シニフィアン)であるが、「事物表象 Sachvorstellung」(イメージ)でもよい。場合によってはより身体的なものに近接した「モノ表象 Dingvorstellung」、「境界表象 Grenzvorstellung」でもよい[参照]。

(サントームとは本来この境界表象の審級にあるが、ここでの記事は厳密さを期さずにこれらを一緒くたにして反復強迫のメカニズムを示すことに限定する)。

ようするに人はシニフィアンを使うことにより、身体的なものが心的装置の外部に置き残され、それが反復強迫を引き起こすのである。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

ここでの文脈では、次の文が決定的である。

ラカンはサントームを「1がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「1がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。il dégage comme son réel essentiel l'itération […]comme ce qui reste de l'articulation signifiante.

ラカンは言っている、2はない[il n'y a pas de deux]と。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である[Il n'y a que le un qui se répète dans l'itération]。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある [Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ] (Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)

ーーこのHélène Bonnaudの文はミレール2011のセミネールのすぐれた要約だが、いまはそのミレール2011から別の箇所を引用しておこう。

1と享楽の結びつきの結びつきが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,、L'être et l'un、 30/03/2011) 
まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

もうすこし補えば、

サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne、1987)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
フロイトが固着と呼んだもの、…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


女という語を使った注釈も掲げておこう。

固着用語を使えばこうである。

フロイトの原抑圧とは何よりもまず固着である。…この固着とは、何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。…この固着としての原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。[Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. ](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
象徴界のなかには女性性のシニフィアンはない。フロイトはこれを発見した。半世紀後、ラカンはこれを穴Ⱥと書き留めた。(Paul Verhaeghe, Does the Woman Exist?, 1997)
ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient](Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


排除用語 ーーforclusion (verwerfung 外に放り投げる)ーーを使えばこうである。

女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme, (Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)
女は言語のなかに穴を為す。La femme fait trou dans le langage(Pierre Naveau, Que sait une femme ? 2012)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008)

……

ここまで原症状としてのサントームにほぼ焦点を絞って記述したが、ここで使用した図は日常的現象についても利用できる。

たとえばシニフィアン「私」である。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)

人は「私」というシニフィアンを使うたびに身体的なものを去勢されてしまう。




このために私は喪われた私を示したいために反復強迫する。これが言語を使用する人間の宿命であり、象徴的去勢と呼ぶ。

固着という構造的トラウマ(現実界的去勢)ではなく、事故的トラウマの映像の反復強迫もメカニズムとしては同じである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーフロイトの「異物 Fremdkörper」、すなわち《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)である。

異物 Fremdkörperとは…身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前していることである。…これはフロイト理論のより一般的用語では、…いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)




 
結局、固着も排除も去勢も「身体的なもの」の落し物である。


あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

ーーかなしみ   谷川俊太郎




谷川俊太郎にとって、この「おとし物」がたぶん詩である。

この世には詩しかないというおそろしいことにぼくは気づいた。この世のありとあらゆることがすべて詩だ。言葉というものが生まれた瞬間からそれは動かすことのできぬ事実だった。詩から逃れようとしてみんなどんなにじたばたしたことか。だがそれは無理な相談だった。なんて残酷な話だろう。 (谷川俊太郎「小母さん日記」『コカコーラ・レッスン』所収、1980 年)

わたくしはこの「小母さん日記」を次の二文とともに読むことを好む。

私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.(Lacan, AE572, 17 mai 1976)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)